サヨナラのウラガワ 11
「ただの治療よ。あー、そうねー……。ほら、唾つけとけば治るって感じよー。安心しなさい。私とアーチャーはなんでもないんだから」
「ち、ちが、そ、そういう、ここ、ことじゃ、」
慌てて否定する士郎だが、明らかに狼狽だけではなく不機嫌さを醸し出している。凛は、くすり、と笑った。
「あのね、」
「凛、私は席を外した方がいいのだろう?」
凛が士郎に説明をはじめようとしたところをアーチャーが遮る。
「えっと、うーん、そうねぇ……」
凛が思案している間に、すく、と立ち上がったアーチャーは、買い出しに行くと言い残し、出て行ってしまった。
「あーあ、行っちゃった。まあ、いっか。えーっと、じゃあ、衛宮くん。これは、どういう状況なの?」
凛は話を進めるために士郎に水を向けた。
「え? ど、どういうって……」
一気に起きたこの事態に、士郎の頭はまだついていけていない。ただただ士郎は混乱しているだけだ。
記憶が戻ってしまい、どうすればいいのかわからず、連絡を取ろうとした凛が目の前にいることも不思議でならない。
「衛宮くん、悪いんだけど、喉が渇いちゃった」
「え?」
うまく説明ができない士郎に、凛は全く関係のないことを言い出した。士郎が思わず訊き返してしまうのは無理もない。
「あ……、そ、そうだな、悪い、お茶も出してなかった!」
ぽかん、としていた士郎だが、慌てて台所に入っていく。そんな士郎に、凛は小さな笑みをこぼした。
「少しは落ち着くかしら?」
凛の呟きも聞こえず、台所でお茶を準備しながら、士郎はようやく落ち着きを取り戻してきたようだ。案外、日常的な動作で人は冷静さを取り戻すものだ。
「遠坂は、仕事なのか?」
盆に急須と湯飲みをのせて持ってきた士郎が座卓につくと、凛とセイバーは自ら座布団を出してきて座っている。聖杯戦争の頃から勝手知ったる衛宮邸だ、士郎が気を回す前に、二人とも自宅なみにくつろいでいた。
「ええ、仕事よ」
「そっか。ついさっきロンドンのアパートに電話かけちゃってさ……」
着信履歴が残っているかもしれないが気にするな、と士郎は苦笑いを浮かべる。ふーん、と気のない返事をした凛は、
「日本に帰ったら何かが起こるとは思っていたの。こんなに早いとは驚きだったけれど」
一口お茶を啜り、まるで、今の状況を見越していたようなことを言う。
「……え?」
凛の言葉を理解するのに時間を要した士郎は、またしても、ぽかん、としてしまった。
「予定よりも早かったけれど、間に合ったわね」
対して、にっこりと笑っている凛は、士郎とアーチャーが帰国したあと、すぐに向かう日程で日本での仕事を予定していたらしい。
「な、なんだよ……、もしかして、はじめから――」
「ええ、そうよ」
「な、ど、どうして! 俺、どうしようかと思っ――」
「それで? 何があったの?」
「あ、あー……、ええと……」
士郎の不平を遮ってくる凛に言い募るどころか、押し黙ってしまう。
彼女には何があったのかを説明しなければならない。そうした上で、きちんとした対処法を訊かなければならない。再び記憶消去の施術をしてもらうことを考えれば、凛に隠しごとなどできない。
――――また、消してもらって……。
あのときの苦しさを思い出してしまい、尻込みする。あんな思いは二度としたくない。一度きりだから決心がついたというのに、また、あんな気持ちになるのは、士郎としても耐えがたいのだ。
「あの……、例の“鍵”が、開いちまって……」
「あらぁ! そうなのー?」
凛は三日月型に目を細めてほくそ笑む。
「な、なに笑ってるんだよ! こっちは笑いごとじゃ、」
「ええ、そうね。記憶が戻ったってことは、衛宮くんは外に出られないものね」
「う……、そ、そん、なことじゃ……なくて……」
「あらぁ、違うのぉ?」
「え? あ、ぅ……、ち、違わない!」
にまにまとした凛が、明らかにからかっているとわかり、士郎は思わず力んで声高になった。
「バイトをしているんでしょ? どうにかしないとダメねえ?」
「う……、あ、ああ、うん、そうなんだ……」
勢い込んでいた士郎だが、その勢いはすぐに萎れてしまう。
「どう……しよう、遠坂……」
バイトのことは今の今まで頭になかった。凛に言われてそれらしい返答をしたが、士郎の頭の中はアーチャーとのことだけで占められていた。
「ふふ、そんなに深刻にならなくってもいいわよ」
「でも、」
「アーチャーがね、気づいたの」
「え? 気づく? 何を?」
「衛宮くんのうなされる原因。それでね、アーチャーに……、って、これはアーチャーが帰ってくるのを待ちましょ」
「え……? う、うん……? うなされてるって?」
「あら? 知らなかったかしら。毎晩うなされているのよ、衛宮くんは」
「はい? それ、初耳、なんですけど……」
「あー……、ハハハ、そう。そー、だったかしらー?」
あらぬ方へ視線を運ぶ凛に、じとり、と士郎は目を据わらせた。
「えーっと、ね。毎晩うなされていて、あなた、極度の睡眠不足なの。お医者様にも言われたでしょ?」
「そう、だったのか……」
「っていうか、なんだって、初耳なのよ? 一緒に検査結果を聞いたじゃない!」
「英語で説明されていたから、ほとんどわからなかった」
「あ…………、そう、だったわね……」
凛は、今ごろになって気づく。ロンドンで生活していたのは、アーチャーであって、士郎ではなかった。ということは、士郎の語学力は高校生のときのままだ。流暢な英語、とくに医学用語など理解の範疇にあるはずがない。
「すぽーん、と忘れていたわ……」
凛をはじめ、アーチャーもセイバーも、士郎の状態のことにばかり気を配り、基本的なことをすっかり失念していたようだ。
「ごめーん……。てっきり理解しているものだと……。それに、アーチャーが説明してるんだと思ってて」
「いや、遠坂が謝ることなんてないよ。俺が訊かなかったのも悪いわけだし。えっと、それで、うなされているから、俺は寝不足なんだな?」
「ええ、そうなの。原因がわからなくて、夢見が悪いんだろうって推測はしていたわ。だけど、士郎は夢を見ていない……、というか、覚えていないってことなんでしょうね。……それで、まあ、元凶を探せずにいたのよ」
「それを、アーチャーが?」
「ええ。たぶん、寝不足は解決できると思うわよ」
他人との関わりは改善しないかもしれないが、睡眠不足の解消はどうにか目処が付くとわかり、士郎は少し胸を撫で下ろす。
「……そっか。解決したら、俺一人でも大丈夫なんだな」
「一人? なに言ってるのよ。アーチャーと二人でしょ?」
「遠坂こそ、なに言ってるんだよ。アーチャーは――」
「ねえ、衛宮くん。私、わかっていたのよ」
「え? 何が?」
「こうなることが」
「ど、どういう、」
「だってー、衛宮くんの設定した“鍵”って……、あーんなの、絶対に鍵にならないじゃなーい」
「へ?」
カラカラと笑う凛に士郎は呆気に取られるばかりだ。
「帰国からひと月弱、アーチャーってば、よく我慢できたわねーって、思うわ……」
「は? え……? ど、どういう……? いや、それよりも!」
作品名:サヨナラのウラガワ 11 作家名:さやけ