再見 四
だが、そうはいかない様だ。皇太子も誉王も、改心する兆しもない。
梅嶺で赤焔軍が大渝を潰した。大渝は軍隊を再編成し、元通り、梁と戦り合うには、十年以上の刻を要するだろう。
梁は今、太平なのだ。だから謝玉如き、お山の大将が軍務を取り仕切れるのだ。
謝玉の軍なぞ、大したことは無い。もし今、大渝が攻めてきたら、国境は崩され、大渝の侵攻に、金陵が戦火に染まり、城は陥落するだろう。
戦なぞ起こらなくも、何より、、、景琰と、霓凰が、無事では済むまい。二人を排斥しようとする筈。命運が尽きる事も考えられる。あの二人は、皇太子と誉王の政権には、素直に従おうとはしないだろう。間違った政策が有れば必ず否を唱える筈だ。
それに何よりも、、、あの愚者たちの為に、祁王が果て、赤焔軍が消えたとは、、許せない、、、、。
祖国を貪り食う奴らを、このまま野放しには出来ぬ。
そして、赤焔事案を覆し、梁を正しく導けるのは、景琰しかいないのだ。そして、そう出来るのは、私しかいない。
藺晨の言う通り、迷う事は無い
私が進む事は決まっているのだ。悩むまでも無い。
ただ、これから起こす事は、失う事、離れる事が多すぎて、、、。
今はとりあえず、皆安定した生活を送っているのだ。
私が、一石を投じれば、漣(さざなみ)が起こり、皆の安定を壊すだろう。
私が投じた石の為に、大切な者達が受ける痛みを、、、、私は傍観するしかないのだ。
しかし、腐ったものは、周囲にも害を及ぼし、やがては取り返しがつかなくなる。どうせ痛むならば、害の少ないうちに限る。痛みも少なくて済むだろう。
刻はきたのだ。
私は、林殊と、、決別せねばならない。
林殊の友と、、、
林殊の環境、、、
林殊の持つ思い出、、、
林殊の姿、、、面差し、、、。
決別には、幾らか、覚悟と刻を要するのだ。
、、、、藺晨ときたら、、医者のくせに、患者の気持ちがなぜ分からぬのだ。
だがもう、、、、進まねば、、、な、、。──
長蘇は、ゆっくりと起き上がる。
すると部屋の中に、飛流がすわっていた。
飛流はあの藺晨を、巻いて来たらしい。
珍しく、きちんと正座をしている。
おずおずと手を上げて、長蘇は頭に巻かれた包帯を触り、端を探す。
治療のせいで、可動域が減り、指の力も落ちている。
端が見つからねば、それを理由に逃げられる、とも考えたが、端は案外早く見つかり、もう躊躇う理由も無くなった。
ゆっくりと、巻かれた包帯を外していく。
緩々と巻かれた包帯は、途中から、包帯自ら外れるかのように、長蘇の顔から離れていった。
包帯が全てが外れて、長蘇は、外気に顔が触れ、風が通るのを感じていた。
顔を覆う、白い毛が無くなったせいだろう。
顔に触れれば、毛のない裸の皮膚を、指が感じている。
額にも、鼻にも、、、、、口の周りにも。
指は唇を探り、唇の中の舌を、皮膚の筋肉の上から探っていた。
かつて、苛付くほど、思い通りには動かなかった自分の舌が、今は柔らかく、自在に意のままに、動いているのを感じた
改めて鏡を覗く。
鏡に映るは、青白い、見たことも無い書生の顔。
如何にも脾弱な、、。
誰も、こんな病弱な書生に、警戒はしないだろう。
藺晨の施術は完璧だった。
──なるほど、『早く見ろ』と急かすわけだ。──
──さらばだ、、、林殊、、。──
──さらば、、私の大切な人達、、、。
皆を守るために、私は皆を捨てるのだ。
そして謀にこの身を染める、、。
皆が健やかならば、それで良い。──
──私は、剣にも智謀にも勝る武器を得たのだ。──
鏡の中の顔には、あれ程似ていると言われた、父林燮の面影も、口元に漂う母親の面影も、すっかり無くなっていた。
もうどこにも残っていない、林殊の痕跡。
選んだのは自分なのだ。
──後悔なぞ、、、元より無い筈。
そもそも白い毛に覆われ、面差しなぞ、分かりはしなかった。──
それでも、何故か心が痛み、鏡の中の己の姿が辛くなる。
──こんな気持ちになろうとは、、。
思いも寄らなかった。きっと人の姿に戻り、清々とするかと、、、。──
長蘇はゆっくりと、手鏡を伏せる。
「飛 流 。」
「、、?。」
長蘇が飛流に微笑む。
飛流は距離を置いていて、強ばった表情をしていたが、長蘇の笑みに、幾らか緊張が和らいだのが分かる。
「鏡 を、 捨 てて 、、。」
「、ウン、、、いいよ。」
己の姿は、もう、見なくても良いと、、、長蘇は、そう思ったのだ。
鏡を持ち、飛流は部屋を出ていく。
ぱたぱたと足音が遠ざかるのを、背中で感じていた。
仄暗い部屋に、僅かに開けた障子戸からは、外の世界が垣間見える。
初夏を迎える。伸び伸びと拡がる緑と、夏鳥の声。
世界はあの日から、変わらずに動いているのだ。
奥歯をぎゅっと噛み、心の奥底に生まれる恐怖に蓋をして、涙溢れるのを必死で堪(こら)えた。
──この部屋だけが、吹雪荒れる梅嶺のようだ。
刻は流れを止めない。
それはずっとずっと、、、、。
私の命には、元々、限りがあった。
『施術をして十年』と言われたが、それは養生した上での時間だ。無理をすれば更に短く。
しかも私に於いては、毒が深く、施術を受けても、火寒の毒は、完全には取り除けぬと、、、。
それならばいっそ、不完全な形で、生き長らえた方がよい、父親も母親も、草場の陰でそう祈っているだろう、と。
その様に、天寿を全うしても良かったのだ。
、、、、、泰平の世ならば。
だが、見せかけの仮初の泰平でしかないのだ。
奴らは、この後の戦火を、考えてもいるまい。
私がこうするしか、道は無いのだ。
林殊としては、謀は出来ないが、何と言うことか、すっかり姿を変えられた。しかも、林殊としての痕跡は何も残らない。
火寒の毒を知らぬなら、林殊と梅長蘇が結びつくなど有り得ない。
火寒の毒なぞ、普通の医者なぞ知らぬ筈。
あの梅嶺で、火炎の地獄を味わった。そして奇跡的に雪に埋もれ、雪蚧虫に蝕まれ、私は毒に侵された。
そして治療の結果、林殊では無くなった。
私がこれから成す事は、林殊では成し得ない。梅長蘇だからこそ、成功の確率が上がるのだ。
梅嶺と火炎の条件は、まさに天の配材といえる。
景琰ならば、分かるだろう?。
お前が傍に居たなら、何が何でも、お前は私を止めるだろう。
だが、幸いな事にお前は居ない。
景琰も一人だったなら、必ず同じ道を選んだだろう。
私がこの道を選んだことで、景琰は苦しむだろう。
だがこの道を選んだ私を、必ず理解する筈。
景琰ならば、、、。──
風が運ぶ、琅琊山の薫り、、、、。
顔の皮膚に、直に風が触れるのは久しぶりで、あの頃は毎日のように、珀斗を馳せ、野山を駆け巡った。
風の中を、、。
──気持ちが良い、、。──
目を瞑って、頬に当たる僅かな風を、感じていた。