長き戦いの果てに…(改訂版)【3】
呆然として立っていたのは、あの戦場で生き残った、たった一人の腹心の部下──ヨハンだった。
「お前か……脅かすな」
そう分かった瞬間、肩の力が抜けた。
ヨハンはあの日から付きっきりで面倒を見てくれた。何ひとつ隠すことも取り繕うこともできない子供のようだった自分に、一言の文句も言わずに尽くしてくれたのだ。
「すみません、そんなつもりは……」
叱られた犬のようなヨハンの顔を見ると、ルートヴィッヒは先ほどの怒りも忘れた。
「ここへ駆け込まれるのを見たので、心配になってつい……」
「そうか、俺を心配してくれたのか。驚かせてすまなかったな、ヨハン。お前だとは思わなかったんだ」
頭の上に手を乗せて、少し癖のある髪をくしゃくしゃっとやると、子犬のようにまぶしそうな笑顔を浮かべる。しっかりしているようでも、やはりまだ子どもだな……思わず口元が緩む。だがルートヴィッヒは表情を引き締めた。
「このことは、誰にも言うんじゃない」
こんな見苦しい様を人に知られるわけにはいかない。ヨハンのことは気にする必要はないだろう。しっかりしているし口も堅い。上司も本当にまだ体調が戻っていないくらいにしか思っていないだろう。
誰にも知られてはならない。いやしくも「国」ともあろうものが、部下を一人二人失った程度でこれほど動揺しているなど、決して誰にも。これまで以上に気を付けなくては。
「分かっています、隊長。たとえ拷問されたって言いません」
ヨハンは真剣な顔でそう請け合った。
「だけど、隊長……何かあったんですか?」
ヨハンは見るからに不安そうな表情でこちらを見ている。こいつには本当に何も隠せない──そう思った。ある意味、恐ろしいヤツだ。
真面目で一途でいい奴なんだが、これだけが唯一の欠点かもしれないと時々思う。それは裏返せば長所でもあるわけだが。
「お前は何でもストレートに口に出し過ぎだヨハン。気を付けろ、それがいつか命取りになるかもしれないぞ」
「えっ、それはどういう……?」
どうやら本当に分かっていないらしい。
「お前ってヤツは、本当に時々驚かされる……何で分かった?」
「何でって……だって軍医が、傷はもうすっかり治って体は回復しているから、後は──」
そこまで言って、はっとしたように口をつぐんだ。
「後は……『心の問題』か?」
ルートヴィッヒが口の端を持ち上げて見せると、ヨハンは困ったような顔をして俯いた。
アイスブルーの瞳は酷薄な光を浮かべ、少しも笑ってはいない。
「アルノーとテオが二階級特進になった。明日には正式発表になるだろう」
ヨハンはハッとして顔を上げた。強ばった表情でルートヴィッヒを見つめている。あの日のことを思い出しているのか、それとも……
「俺を助けた功績だそうだ」
ふん、と投げやりに言い捨てる。
「馬鹿な……俺なんかの為に……」
悔しさが募り、ルートヴィッヒは思わず唇を噛んだ。
「馬鹿だなんて言わないで下さい隊長!」
ハッとしたのは今度はルートヴィッヒの方だった。
「死んだあいつらがかわいそうだ!あなたを助ける為に命を懸けたのに隊長がそんなことを言ったら、あいつらが浮かばれません……!」
ヨハンは泣いていた。仲間たちの死は自分の死と同じなのだ。それを無下にされては、たとえ相手がルートヴィッヒでも、いや、むしろ彼自身から出た言葉だけに余計に許せなかったのだろう。
「すまないヨハン、俺が…悪かった。……そんなつもりじゃなかったんだ」
ルートヴィッヒは、震える手をヨハンの肩に置いた。
「だが……お前にだけは、分かって欲しい」
しばらく俯いたまま黙っていたが、ヨハンは何かを覚悟したようにゆっくり顔を上げた。
「……イエス、サー」
ヨハンは震える瞳でルートヴィッヒの目を見つめ返した。
「隊長……一つだけ、お願いがあります」
「何だ?」
「どうかもう二度と、さっきみたいなことは言わないで下さい。お願いですから、もっとご自分を大切にして下さい」
ルートヴィッヒは黙って黒い瞳を見つめ返した。
緊張で震えているが決して目は逸らさない。生真面目で子犬のような顔をしてこちらを見ている。ヨハンの気持ちは痛いほど分かる。俺なんかにそこまで入れ込むような価値などないんだと言いたかったが、さすがにそれは言えなかった。口先だけの約束を与えることもできたが、その考えはすぐに捨てた。ヨハンに嘘は吐きたくない。
だから諾とも否とも返事はしなかった。
「俺みたいなヤツが口幅ったいことを言って、申し訳ありません」
しばしあって諦めたようにそう言うと、ヨハンは頭を下げた。
「さあ、もう行きましょう隊長。みんな待ってます」
歩き出そうとしたヨハンの腕を、突然ルートヴィッヒが掴んで引き留めた。
「待て、ヨハン。その前に一つだけ聞いておきたいことがある」
「何ですか、隊長?」
ヨハンが恐る恐る、と言った顔で問い返す。
「あの時、何が起こったのか知りたい。俺が戦場で倒れた後のことだ。今まで聞かなかったから、お前も何も話さなかったんだろう?」
ヨハンの表情が強張った。
「聞かせてくれないか、お前の口から」
「そ、そんな話は後でも──」
「いや、今聞きたい。本当のことをだ」
声は決して荒げない。だが断固とした表情で見据えてやる。
ヨハンはしばし逡巡していたが、どうやら逃げられないと悟ったらしい。
「……イエス、サー。でもここではなくて、せめてどこかもう少し落ち着いた場所で……」
「ああ、それもそうだな。分かった、では俺の部屋へ行こう」
ずっと病室にいたので、自屋に戻るのは久しぶりだった。
士官用の個室。ここは出先なのでそれほど広いものではないが、ベッドやデスクなど一通りの家具が備え付けられている。長く不在にしていたが、管理が行き届いていて、すぐに使えるよう整えられていた。
「まあ座れ」
「……イエス、サー」
ヨハンは示された椅子にぎこちなく腰を下ろした。
ルートヴィッヒは正面にあるベッドにどかりと座ると軍帽を取った。
「こんなものを被っていると堅苦しくていかんな」
何と答えていいか分からずヨハンが黙っていると
「さあ、ここには俺たち二人だけだ。誰も聞くものはいない。起こったことを全て、ありのままに話してくれ」
ヨハンは強ばった表情で何度か手を握ったり開いたりした。
しばらくそうした後でようやく覚悟ができたのか、訥々と話し始めた。
「……ハンスがやられた後、すぐに建物が爆破されました。爆風が収まった後、煙が濛々として視界がゼロになったので、俺たちはいったん近くの建物の陰に待避して煙が収まるのを待ちました」
視界が回復して最初に目に入ったのは、サーチライトに照らされるルートヴィッヒの姿だった。地面に倒れて目を閉じたまま全く動かない。
あふれ出す血がじわりと軍服を濡らしていくのが遠目にも分かった。ヨハンは慌てて駆け寄ろうとしたがすぐに敵の一斉射撃が始まった。
すでに死んだものと判断したのかルートヴィッヒが狙われることはなかったが、何とか様子を見ようと少しでも姿を見せるとすぐに銃撃が始まる。近づく方法がなかった。
「撤退する。作戦は失敗した。残念ながらハンスと隊長はもう駄目だ。これ以上犠牲者を増やすわけには行かない」
副長の苦渋の決断だった。
作品名:長き戦いの果てに…(改訂版)【3】 作家名:maki