長き戦いの果てに…(改訂版)【5】
かつては剣を握り、時代が下っては銃を握って常に戦い続けてきた彼の硬くてごつい大きな手をそっと摩る。
「冷たい……」
紫の瞳から涙があふれて頬を伝った。
「どうしてですか?どうしてこんなことに──」
彼のいかつい手を取ると、涙に濡れた自分の頬にそっと押し当てる。
「あなたがいつもその手で慈しんでくれた。あなたが冷え切った私の心に温もりをくれたんです……分かりますか、あなたがいつもその大きな手のひらで優しく包んでくれたこの頬の温もりが。どうか……思い出して、お願いです」
夜ごと交し合った肌の温もりに触れ、彼を呼ぶ声を聞けば、ルートヴィッヒが眼を覚ますのではないかと淡い期待を抱き、ローデリヒは話し続けた。
「あなたと出会うために私はこれまで生きて来た。そして、あなたがいるから私は生きて行ける。これからもずっと……だから──早く目を覚ましてください」
ひとつぶ、ふたつぶ。眠り続けるルートヴィッヒの枕元に涙が滴り落ち、白い枕カバーに吸い込まれていった。
「どうか、お願いです……私を置いて行かないで。あなたはひとりでどこへ行こうとしているんですか?生まれ変わるってなんですか?今のままのあなたじゃ何がいけないんですか──教えてください、ルート!」
ローデリヒは激情に駆られて思わずそう叫んだが答えはない。
青ざめた白い頬に伏せられた美しい金色の睫毛も微動だにしない。口元には安らかな微笑みさえ浮かべてルートヴィッヒはただ静かに眠っていた。
「人は……生きてこそ学ぶものでしょう、私は間違っていますか?この世に完璧な人間なんて、完璧な国なんてありませんよ、ルート」
「──ああ、そんなものがいるとしたら、そいつは『神』だろうよ」
背後から突然投げかけられた声にはっとして振り向くと、開いた扉の前にギルベルトが仁王立ちいた。
「……ノックぐらいしたらいかがですか、ギル」
「神なんか……この世にいやしない」
むっとしたローデリヒの言葉にも答えず、吐き捨てるように言い放つと、ギルベルトは弟がひっそり眠り続ける寝室にずかずかと踏み込んだ。
「相変わらずお優しいことだな」
「何を言ってるんですか、あなたがそんなだからこの人は──」
ローデリヒははっとしたように口をつぐんだ。
「俺が何だって?俺がそんなだから?遠慮するな、言ってみろよ坊ちゃん」
ギルベルトは歪な笑みを浮かべて憎まれ口を叩いてみせたが、銀色の睫毛に縁どられた紅い瞳は抑えようもなく震えている。
「あいつはお前に何を言った、お前は何を口止めされた?──あいつらはなぜ、こいつを連れて行こうとしているんだ?!」
激情に駆られてギルベルトは思わず怒鳴り声を上げた。
「落ち着いて下さいギル、この人の前で大声を出さないで!」
ローデリヒは眠っているルートヴィッヒを慮り、抑えた声でギルベルトを諌めた。
「ん…ぁあ、済まない……」
いつもなら確実に噛みついてくるのに、今日ばかりはさすがのギルベルトも参っているのか馬鹿におとなしい。
「なぁ、お前はずっとこいつの側にいたんだろう?その…だな、何か言ってなかったか?何か夢を見てたようだとか、寝言か何か言ったとか……」
「いいえ、ずっと静かに眠っているだけです。うなされたり寝言を言ったりなど一度もありません」
単刀直入を持って旨とする彼にしては、どうも歯切れが悪い様子にローデリヒは不審を覚えた。
「どうしたんですギル、何を言ってるんです。もしかして、何かあったのですか?」
「いや……そうじゃないが──その……」
彼らしくもなくギルベルトはしどろもどろになった。
ローデリヒが何も言わずに紅い瞳を覗き込んでいると、ついに我慢できなくなったらしくギルベルトが白旗を上げた。
「クソッ!……分かったよ、俺の負けだ」
散々ぐずぐずしてようやく、ギルベルトは傍らにあった椅子を乱暴に引き寄せ、お行儀悪く椅子の背もたれを前にして座面にまたがると、ふてくされたように背もたれに腕と顎を乗せた。
「何ですか、国ともあろうものが、その座り方は──」
「うっせーな!こんな時に、ごちゃごちゃ言うんじゃねぇよ……」
ローデリヒが咎めると、ギルベルトは短い銀髪を手でぐしゃぐしゃと掻き回しながら言い捨てたが、語尾は弱々しかった。
「何があったのですか、ギル」
そのまま椅子の背に顔を伏せてしまい、中々口を開こうとしないギルベルトに焦れてローデリヒが声を掛けると、紺色のジャケットを着た肩がびくりと震えた。
だらしなく椅子の背に乗せていた両手が小さく震えている。その手がスローモーションのようにゆっくり動くと、指の関節が白くなるほどに力を籠めて自分の腕を握り締めた。良質の生地で仕立てられた立派なジャケットが台無しになるのもお構いなしに。
「袖が…破れてしまいますよ、ギル」
どうしていいか分からず、ローデリヒはそんな間の抜けた言葉を掛けた。
「何でだよ……!」
椅子に突っ伏したまま、ギルは唸るような声を漏らした。
「何だってんだ!袖なんかどうだっていいんだよ!何言ってんだよお前は!」
突然弾かれたように顔を上げるとギルベルトは吠えた。
最初は自分に言っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
椅子を蹴って立ち上がると何もない天井に向かい、まるで何かに取り憑かれたように喋り続ける。
「どうしてだよ!どうしてこいつがこんな目に遭わなきゃならない?こいつをどこへ連れてこうって言うんだ!こいつが何をしたって言うんだ!俺が──何をしたって言うんだよ……なあ、教えてくれよ…兄弟……?」
ローデリヒはギルベルトの独白を聞きながら、目の前で演じられる喜劇の一幕を傍観者のように見物していた。
この騒ぎの中でも身じろぎ一つせず昏々と眠り続ける美しいルートヴィッヒは、まるで呪いに掛かった眠り姫のよう。……いや、眠れる森の王子か……こんな時に埒もないことを考えるなんて、今の自分が思考停止していることの証拠以外の何でもない。ローデリヒは無力な自分を心の内であざ笑い、整った美しい唇の端を醜く歪めた。
眠り続けるルートヴィッヒと、それを見守るローデリヒとギルベルト。
自分たち以外この部屋には誰もいない。ギルベルトは癇癪をおこして誰かに怒鳴り散らしているようだが、そもそも誰に向かって叫んでいるのか。
「ギル、あなた本当にどうしてしまったんですか……!」
ギルベルトはローデリヒの存在など忘れてしまったように、今度はつかつかとベッドに近づくと、眠るルートヴィッヒの肩に手を掛け、怒鳴りながら激しく揺さぶり始めた。
「おいっ起きろ、ヴェスト!いつまで寝てるつもりだ!俺はお前をそんな風にしつけた覚えはないぞ、さっさと起きないかッ!」
それでも眠り姫は何の反応も示さない。
「それとも何か、王子様がキスでもすりゃあ起きるってのかよ!あぁ?……何とか言ってみろよ!」
「落ち着いてギル、乱暴しないでください!」
慌てて止めに入ったが、ギルベルトはほとんど錯乱状態で聞き入れなかった。
「うるせえな、放せよっ!」
振り払った腕の力は思いのほか強く、ローデリヒは弾き飛ばされて激しく床に叩きつけられた。
「う……っ」
作品名:長き戦いの果てに…(改訂版)【5】 作家名:maki