長き戦いの果てに…(改訂版)【5】
倒れた拍子に思いきり背中を打って一瞬息が止まったが、頭を打っていないことにローデリヒは感謝した。痛む背中をさすりながら起き上がると、どこかへ飛んだ眼鏡を探しにかかる。
「すまねぇ、ローデリヒ……眼鏡はここだ」
ぼやける視界の中、差し出された眼鏡が見えた。
ようやく我に返ったと思しきギルベルトがしゃがみ込んでこちらを見ている。
「…それは、どうも」
そっけなく答えて眼鏡を受け取る。
「大丈夫か?こんなことをするつもりじゃなかった、許してくれ」
「……」
彼のこんな表情を最後に見たのはいつだったろうか。
傷ついた子供のように後悔に歪む紅い瞳。
「大丈夫な訳ないでしょう、おかげで眼鏡が歪んでしまいましたよ」
暴力を振るわれたのはこっちなのに、これじゃどっちが被害者か分かりませんよ──皮肉の一つも言ってやろうかと思ったが、ローデリヒは思い直した。
彼も苦しんでいるのだ。どうしようもないこの状況に、自分の無力さに。
小さく溜め息を吐くとローデリヒは彼に向かって右手を差し出した。
「お…っ、おう」
ギルベルトは差し出された手を取ると、ローデリヒが立ち上がるのを手伝ってやった。立ち上がると服に付いた埃を軽く払って、改めてギルベルトの顔を見る。
「どうしたっていうんですか、あなたがしっかりしないといけない時なのに。何があったんですか?」
──そう。あなたの気持ちは分かります。
でも私だってどうしていいのか分からなくて不安で、苦しくて、泣きたいのに。この人はどうしたいんだろう。
私にはもう何もできることはないのだろうか……?
「お……っ、おい!どうした!泣くんじゃねぇよ、大の男が」
ギルベルトがこちらを見ながら慌てたように叫ぶので、私は眉をひそめた。
「何を言ってるんですか、私は泣いてなんか──」
そう言いながら、頬を伝う生暖かい感触に気がついて手をやる。指が濡れたものに触れた。
これは……涙?
…私が?
静まり返った室内で、数滴のしずくがぱたり、ぱたりと滴り落ちる音がした。
「怪我でもしたのか?すまねぇ!」
ギルベルトは勢いでやり過ぎたのかと焦っているらしい。
「違い……ます、私がこのくらいで怪我なんか」
なのに……どうしてここで涙なのか。
泣いている場合じゃないのに、私はあの人を助けなきゃならないのに、私には何もできないのか、何か他にできることはないのか、何をすればいい、私はどうすれば──!
「じゃあ、どうしたんだよ──」
ギルベルトの質問に、考えるより先に言葉が出た。
「余計な事は聞かないでください、何でもないと言ったでしょう!」
ギルベルトがぎょっとしたような顔をする。私が普段なら口にしないような言葉を発したからだろう。でもそんなことはもうどうでもいい。
「第一、今はそんなことをしている場合じゃないはずです、この人を助けなきゃならないんです、その為には何をしなきゃならないのか、何ができるのか、それを考えなきゃならない時なんです!あなたにも分かっているでしょう?」
何事もなかったかのようにローデリヒは懐から取り出したハンカチで顔を拭った。涙はもう止まっている。
「感傷的になっている時ではありませんよ、それもあなたともあろうものが!」
紫の瞳がレンズの奥から威圧するように冷たい光を放ち、珍しくギルベルトをひるませた。
「うるせぇよ!俺にだってそんな時くらいあるさ、鬼でも悪魔でもないんだからな。仮にも弟がこんな……だが確かに今はお前の言う通りだ」
負けず嫌いの彼らしい口ぶりだが、すぐに目の前の現実に立ち返ることができるのも彼らしいと言えば彼らしい。普段なら決してギルベルトのことを認めたりなどしないが、今だけは心の中で賞賛することにした。
「では話を戻しましょう。あなたが部屋に入って来た時、最初にうかがった事です。夕べ、何かあったんですか?」
「……ああ」
ギルベルトは先ほど自分で蹴倒した椅子をまた引き寄せて座った。先ほどと同じく椅子の背を前に持って来て跨る行儀の悪い座り方だ。
今はその件にこだわっている場合ではない。今回だけは見逃すことに決めて、ローデリヒは続きを促した。
「あいつの言ってた『兄さんたち』が現れやがったのさ」
「何ですって?」
ローデリヒが眉をひそめた。
「まさかそんなことが……だって彼らはもう、とうに──」
「そう、消えたよな。お前も知っての通り、我らが神聖ローマ帝国が消え、あいつらが消えて新たにルートヴィッヒ──ドイツが生まれたんだ」
ギルベルトは眉間にしわを寄せた。
「姿は見えなかった。だが俺に話し掛けて来たんだ、誰だったのかは分からない。一人じゃなく、複数だったのかもしれない」
「失礼ですがギル、あなた夢でも見てたんじゃないですか?」
一瞬見るからに不満そうな顔になったが、そこは何とか抑えたらしくギルベルトは話を続ける。
「俺も最初はそう思ったさ、だが部屋に証拠が残ってた」
ギルベルトは今朝、書斎に残るインクの痕を見つけた件を打ち明けた。
「何てことですか……!それじゃ本当に彼らがルートを連れて行くというのですか?」
「そうだ」
「連れて行くって、どこへです?その時が来れば返すって、どういう意味なんですか!」
ローデリヒは激昂して身を乗り出し、らしくもなくギルベルトの襟首をつかんだ。
「放せよッ!俺に訊くな、分かるわけねぇだろ。それが分かりゃ苦労しねぇよ……!」
真紅の瞳を深い苦悩の影が覆っていく。
「すみませんギル、私としたことが……」
紫の瞳からたぎるような光が消え、ローデリヒは襟首をつかんだ手をそっと離した。
「俺にだって訳が分からねぇよ……何で今、あいつらなんだ?それもやつが望んだだと?強くなりたい、俺に認められたいってどういうことだ、俺があいつを認めてなかったっていうのか?」
ギルベルトの紅い瞳には溶岩のようにどろどろした暗い闇の炎が燃えたぎった。
「俺はいつだってあいつを大事にして来たんだ、自分自身よりもだ!あいつは望み通りに強く、大きくなった。それなのにいったい何が気に喰わないって言うんだ。俺の……何が悪いって言うんだよ──」
血を吐くような告白だった。ローデリヒは黙ってその言葉を聞いた。
だがギルベルトは本来、この場でそんな告白をするつもりはなかったらしい。言い終わった後、突然ローデリヒの存在に気付いたように驚愕の表情を浮かべた。
「な……っ、お前ッ、今の聞いてたのか?」
「ええ、全て」
「いっ、今のはナシだ!間違いだ、言わされたんだ、あいつらにっ!元々あいつらが言った事だ、俺には関係ねぇ──」
ギルベルトはひとりで慌てふためいていたが、その姿を見てもローデリヒは笑えなかった。普段ならせいぜい笑ってやるところだけれど、今はそんな気分にはなれない。
誰にでも弱点はある。それを恥じることは罪とは言えない。
ローデリヒは眼鏡の奥からアメジストの光でギルベルトを射抜いたが、それは相手を思いやる強さをも内包する光だった。
作品名:長き戦いの果てに…(改訂版)【5】 作家名:maki