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長き戦いの果てに…(改訂版)【6】

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乱れて額に落ちかかった黒髪をやさしくかき上げると、フェリシアーノはそっとキスを落とした。幼い子供をあやしつけるように。
フェリシアーノにとってはごく自然で何という事もない行動だったが、その瞬間、ヨハンの心臓はドクンと疼いた。
「あ……っ」
たったひとつのキスが忘れていた記憶を急激に呼び起こす。
思い出すに連れて急激に鼓動が激しくなった。
ただのキスひとつでギルベルトに籠絡され、館に連れてこられ、ベッドの上でいいように弄ばれた。男同士なのに体はそれを拒絶しなかった。易々とそれを受け入れて快楽を貪った。自分だってそれを楽しんだのだ。思い出すだけでも激しく胸が締め付けられる。
だが──それより大事なことがあった……気がする。ヨハンは意識を失う前の最後の記憶を何とか手繰り寄せようと必死であがいた。
逆光の中に浮かぶ大佐の必死の形相。落ち着け!息をしろヨハン!──そんなことを叫んでいた気がするが……

「どうしたの、しっかりしてヨハン!」
「……フェリ?」
突然目の前の現実に引き戻される。
まるでデジャビュだ。繰り返される光景がおかしくて思わず笑うと、フェリシアーノを怒らせた。
「なに笑ってるの!俺、心配したのに──」
フェリシアーノは声を詰まらせた。
「ヨハンの目が急にガラス玉みたいになって、瞬きもしなくて、そのままどっか遠くに行っちゃうんじゃないかと思って、俺、本気で心配したんだよ!」
「ご、ごめん……」
またデジャビュ。でも今度は笑えなかった。
「ルートもいなくなっちゃうし、ヨハンにまで何かあったらどうしようって、俺……」
鳶色の大きな丸い瞳から、また大粒の涙がいくつも零れ落ちた。
「何?今、何て言った?」
「──あっ!」
フェリシアーノは慌てて口元を押えた。
「お、俺は何も……何も言ってないよ」
そう言って後ずさりすると早口でこう告げた。
「ま、まだ具合が悪そうだから、ヨハンは休んだ方がいいよ。俺、看護師さんに知らせてくる」
逃げるように立ち上がったフェリシアーノを、ヨハンは鋭い声で引き留めた。
「隊長がいなくなったって、どういうことだ」
ドアノブを握った手が震え、フェリシアーノはびくりと肩を震わせた。
「た…大したことじゃないんだ、そんな大げさに考えないで。ギルだっているし、心配ないよ。ヨハンはまだ体調が良くないんだ、とにかく休んでて──」
言葉とは裏腹にフェリシアーノの顔は真っ青だった。
「顔に大丈夫じゃないと書いてあるぞ、フェリ」
そう指摘するとフェリシアーノは目を伏せた。
「ごめん……心配させたくなかったんだ」
「気持ちは嬉しいけど、これは大事なことだから聞かないわけにはいかない」
口調こそ穏やかだが、黒い瞳には不穏な光が宿っているのを見て、これ以上ごまかしきれないと悟ったのだろう。フェリシアーノはベッドの脇に戻ると、傍らの椅子に腰かけた。
彼の話によると、ヨハンが倒れてから1週間が過ぎていた。
精神的に酷く不安定な状態が続く為、強い薬を継続的に与えられ、意識が朦朧とした状態が続いていたらしい。今日になってようやく落ち着いてきたので面会が許されたという。
「それで、隊長は──」
ヨハンは急き込むように問いかけた。
「うん、ヨハンが倒れた翌日にルートも倒れたらしいんだ」
「何、だって──」
どういうことだ、何が起こった?
隊長はローデリヒさんの首を絞めたとギルベルト大佐は言ってた。そして今度は倒れたなんて──まさか、あのことと関係あるのか?
不穏な憶測が次々と心の中に湧き上がる。
「それからずっと眠ったままでいたんだけど、昨日になって突然、部屋からいなくなっちゃったんだ」
「だ、誰か、出て行くところを見た人間はいないのか?」
不安からヨハンの声が震えた。
「……いたよ」
見た者がいた?何だって、聞き違いか?
「出て行くところを召使いが見てた」
「じゃあ、何で──!」
フェリシアーノを責めるつもりはなかったが、上ずった叫びは、そう取られても仕方がないものだった。
「彼には止められなかったんだ!」
フェリシアーノも叫び返した。見つめる鳶色の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
ヨハンは呆然となった。今聞いた言葉の意味が理解できない。
しばらくの間ぼんやりフェリシアーノの顔を見つめた後で、ようやく言葉が出て来た。
「……どういうことだ」
フェリシアーノは時々しゃくり上げながら、途切れ途切れに話し始めた。
その内容を何とか繋ぎ合わせるとこうだ。
それまでずっと付きっ切りだったローデリヒが、ギルベルトの指示でルートヴィッヒの側から外されたあとは、信頼できる召使の一人グスタフが指名されて、新たに付き添うことになった。
グスタフはルートヴィッヒが目を覚ましたのに気がついて声を掛け、様子を見ようと近づいた。
だが何の返事もない。
ルートヴィッヒは普段から使用人を無視したり、無下にしたりするような主人ではない。むしろ下っ端の顔まで覚えていて、何かにつけて親しく声を掛けてやる方だった。
これは明らかに何か様子がおかしい。急いでギルベルト様に報告しなくてはと、ルートヴィッヒに背を向けた瞬間のことだ。何が起こったのかも分からない内に、グスタフは後ろから羽交い絞めにされ、締め落とされたらしい。
倒れていたグスタフが、窓から吹き込む夜気の冷たさにようやく意識を取り戻すと、部屋はもぬけの空になっていた。
開けっ放しの窓から吹き込む風にカーテンが揺れており、あわてて辺りを見回すと、ルートヴィッヒが着ていた寝衣が脱ぎ棄てられており、後で分かったことだが、クローゼットからは衣類が一揃いなくなっていた。
きちんと着替えて出て行ったのは間違いないようだが、ルートヴィッヒの性格からして、よほどの事がなければ、着ていた物を脱ぎ散らかしていくことなどまず考えられない。
また、いつどのようにして外へ出たのか、誰も目撃したものがいなかった。
主の様子がおかしいことは屋敷内のほとんどの人間が承知していたので、姿を見られ、引き止められる事を避けようとしたのかもしれない。
誰にも見られずに外へ出るのは不可能ではないが、広大な屋敷に似つかわしく使用人も多数おり、深夜を除いては四六時中屋敷のあちこちを行き来している。
人に見られない為には、よほど注意して姿を隠しながら進まなくてはならなかったはずだ。それとも面倒を避けるため、2階の寝室の窓から直接出て行ったのか。
いずれにせよ外から何者かが侵入した形跡も見られない以上、自分の意思で出て行ったとしか考えられなかった。

「何てことだ、一体何があったんだ、隊長はどうして──」
泣きじゃくるフェリシアーノを前にヨハンはしばらく考え込んでいたが、意を決したように立ち上がった。フェリシアーノは、ヨハンの目に浮かぶ不穏な影に気がついて顔色を変えた。
「ヨハン、どうしたの?」
「……行かなくちゃ」
また先ほどと同じセリフ。
「どこに行くんだよ、ヨハン?」
様子がおかしい。また目の焦点が合っていない。彼が見ているのはここではない、どこか遠く。何を見ているのか。
「どうしたのヨハン、俺を見て!こっちを見てよ!」
「隊長を探さなきゃ……俺が行かなくちゃならない」