長き戦いの果てに…(改訂版)【1】※年齢制限なしver
2.傷
「ルート……この傷は?」
静まり返った室内にローデリヒのかすれた声が響いた。
音楽を奏でる繊細な指で分厚い胸に刻み付けられた大きな傷跡をなぞりながら問いかける。
そこにはもう治りかけているが、おそらく消えないだろう何十針もの痛々しい縫合の痕が浮かび上がっていた。
元々胸と言わず背中と言わず全身に無数の傷跡がついているが、これほど酷いものは見たことがない。ローデリヒは彼が戦地に向かう前日、共に過ごした最後の夜を思い出していた。
遠征先で重傷を負ったのは知っているが、彼はこうして無事に帰還している。フェリシアーノの言っていた事とこれは何か関係があるのだろうか?
彼には元々少し変わった嗜好もあるものの、あのように異常な興奮状態になったことはない。
留守の間に私が浮気したことに気づいたのか……いや、それが原因だとは思えない。もしそうなら、彼ははっきりそう告げて私を打ち据えただろう。
フェリシアーノと交わした言葉を思い出す。
──ルートが死んじゃう!ルートを助けて!俺じゃダメなんだ!
何度も必死でそう訴えていたが、死ぬとはいったい何を意味しているのか、結局何も聞き出せなかった。
──お願い、俺が言ったって絶対に言わないで!
──分かっていますとも。
あの時はフェリシアーノを安心させようとそう答えた。
ルートヴィッヒは誇り高いゆえに同情されることを好まない。助けが必要なら自分からそう言うだろう。あの子もそれを分かっているのだ。
──あなたから聞いたなどと言いませんよ、全てお任せなさい
あの子の言うことはいつも大げさだから、どうせ今度も大したことはないだろうと高を括っていた。何かあれば彼が自分から話してくれるはずだし……
だが今日の彼は何一つ語ろうとしない。
黙って涙を流していたかと思えば、今度は天井を見上げてぼんやりしている。いつでもはっきり言う人なのに今日に限ってどうしたのだろう?
彼を裏切った事は責められても仕方ないと覚悟していたが、どうもその件ではないらしい。何が原因なのか分からない。どうして何も話してくれないのだろう?
永遠のように感じる重苦しい時間が過ぎた後、ルートヴィッヒはようやく気怠げに口を開いた。
「その……傷は……」
相変わらず天井を見つめたまま表情はなく、こちらには目もくれない。
ローデリヒは彼の胸にそっと頬を寄せて囁いた。
「いいんですルート。何も言わなくても……」
ときおり外を吹き過ぎる風の音や犬の遠吠えが聞こえるが、それ以外は物音ひとつせず夜はしんと静まり返っている。痛みを覚えるほどの沈黙の中に二人の心臓の鼓動だけがやけに耳についた。
やがてルートヴィッヒの呼吸が速くなり、動悸が急激に高まってきた。
「ローデリヒ…俺は……」
ルートヴィッヒは深い溜め息を吐き、掠れた声を絞り出すように話し始めた。
「無理しなくていいのですよ、ルート」
「いや、聴いて欲しい。その…迷惑でなければ、だが……」
「迷惑だなんて!」
自分でも驚くような声が出た。
「すみません、私としたことが。でも話したいことがあるのなら、どうか遠慮なく話して下さい」
ローデリヒはルートヴィッヒの震える瞳をまっすぐに見つめた。先程の闇がまた彼の瞳に影を落としている。
戦場で何かあったのか。あなたは何をそんなに苦しんでいるのか。それがどんなことであろうと私は受け入れる覚悟がある。あなたを守るためならどんなことだってできます。
ローデリヒは口には出さず彼の言葉を待った。
ルートヴィッヒは彼らしくもなく落ち着かなげに視線を彷徨わせていたが、とつとつと話し始めた。
「知っていると思うがその傷は……先の戦場で受けたものだ」
ローデリヒは黙って頷き、続きを促した。
「俺は、あの時……」
ルートヴィッヒはその時のことを思い出しているのか目を閉じて再び黙り込んだ。眉間には深い縦皺が入り、きつく引き結んだ唇が震えている。
「ルート……私がいます。何があっても私はあなたのそばに」
ローデリヒは彼をしっかりと抱きしめた。極度の緊張からか体が硬まり、じっとりと汗がにじんでいる。
深呼吸すると、ようやく震える瞼を開いて天井を見つめながらゆっくりと話し始めた。
「俺は……今まで死が怖いと思ったことは一度もなかった」
はっとして思わず顔を上げた。
苦痛の色は少し薄れたもの、相変わらず視線は定まらず心はどこか遠くを彷徨っているように見える。
「あいつらを……助けようとしたんだ」
その顔に再び深い苦悩の色が浮かんだ。
「あの状況ではもう無理だと分かっていたのに……俺は判断を誤った。そのためにみんな死んだ」
その日の任務はゲリラの掃討作戦だった。エリアの制圧はほぼ終わっていたが、隠れてしつこく抵抗を続ける敵を一掃する必要があった。さもなくばここまでやって来たことが全て無駄になってしまう。
以前から目を付けていた隠れ家に幹部が集まるとの情報を得て、最後の掃討作戦が行われることになった。
建物の内部構造から敵の人数、武装、正確な日時等、事前に詳細な情報が集められ綿密な計画が立てられた。水も漏らさぬ完璧な作戦のはずだった。
「だが我々はミスを犯した」
ルートヴィッヒは突然口をつぐむと、また深い溜息をついた。
「我が隊に……裏切り者がいたんだ。ミスを犯したのは『我々』ではない……俺だ」
水色の瞳が急速に光を失い、苦悩の陰に覆われた。
「俺には人を見る目がなかった。何が隊長だ、いい気になって!俺は大馬鹿者だ!俺には部下たちを率いる資格などなかった……」
そう言って両手で金色の髪を激しくかきむしると顔を覆ってうつむいた。掌の下からくぐもった声が漏れた。
「俺が最も信頼する部下だった、まさかヤツが裏切るなんて思ってもみなかった。俺は…甘かった」
作戦はすべてゲリラ側に漏れ、そのまま敵の罠と化した。
「そうとも知らず、俺はまんまとそれに填まった」
かすれた呟きと虚ろな自嘲の笑いが漏れ、掌から涙が滴り落ちた。
「その結果がどうなったか……もう言うまでもないだろう」
新月の夜だった。
ルートヴィッヒたちは夜陰に乗じて敵のアジトに近づいた。夜が明ける直前、闇が最も深くなる時間を選んで。全員眠りに就いていているのか、あたりはひっそりと静まりかえっていた。
ハンスが先陣を切って音もなく建物のドアに張り付いた。あたりの様子を確かめるとすばやく仲間に合図を送る。
移動を開始した時、ルートヴィッヒは近くの建物の窓にチカッと反射する光に目が行った。しかしそれがこちらを狙うライフル銃だと気づいた時にはもう手遅れだった。
「罠だ!」
そう叫んだ瞬間サーチライトが点灯し、あたりは昼のように明るくなった。
先行したハンスは一斉射撃の的になった。あっという間に蜂の巣になり、声もなく倒れ伏した。
「隊長、早く!ハンスはもうダメだ!」
誰の声だったのか。自分を止めようとした部下の声が脳裏に鮮やかに蘇る。
今まで戦場で迷ったことなど一度もなかった。
──一瞬の迷いが死を招く。だから決して気を抜くな、どんな時でも絶対に迷うな。
兄ギルベルトはそう言って、ルートヴィッヒが幼い時から徹底的に戦場での行動規範を叩き込んだ。
作品名:長き戦いの果てに…(改訂版)【1】※年齢制限なしver 作家名:maki