再見 五 その一
部屋を出た藺晨の脳裏に、ふと、友の救助に梅嶺に向かおうとする、老閣主の言葉が浮かぶ。
老閣主は、『梅嶺に行かねば』と、藺晨が止めるのも聞かなかった。
『何故、危険を犯してまで、行く必要が?。医者が数人増えたところで、一体何になります?。彼らにとて、軍医はいるはず。』
ここまで老閣主に言わねばならぬのかと、藺晨は林燮という人物に、少し嫌気がさす。
林燮は、藺晨が子供の頃に、一度二度会ったきりの人物だった。ここ何年と、老閣主も林燮には、会ってはいない。
そんな人物が、老閣主にとって、戦火を潜り抜けてまで、助けに行かねばならぬ存在とは、到底思えない。
何か、藺晨に明かしていない、大きな借りや秘密でもあるのか。
梅嶺に行くと言って、藺晨が制止するも、頑なに聞かなかった
藺晨が必死に止めるのも聞かず、梅嶺に行くと言った、、あの日、、。
『父上、命懸けですよ?。』
『分かっている。』
老閣主は、並々ならぬ覚悟をしていた。
疫病が発生すれば、危険も顧みず、閉鎖された村にも入って行くが、戦場での医療経験が無いのは、藺晨も知っていた。
『、、、ならば、私が代わりに行きます。幾らか腕に覚えのある私が行った方が、まだ良いでしょう。』
『、、、いや、ならぬ。私が行かねば意味が無い。
友の窮地なのだ、私が行かねば。もしこの琅琊閣で、高みの見物でもしていようものなら、私は死ぬまで後悔をするだろう。』
頑として、藺晨の言葉を受け入れぬ。常々、物事に柔軟に対応する老閣主が、ここまで頑固だとは、藺晨も思っていなかった。
『父上にとって、林燮殿は、一体何なのです。自分の命すら惜しまぬとは。』
『心を通わせたただの知己だ。策謀などで失うには、誠に惜しい大人物よ。』
『、、、父上、、たったそれだけの事ですか?。』
『それだけだ。』
『、、、、。』
『納得がいかぬようだな。』
無言でただ睨む息子を見て、老閣主は笑っていた。
『林燮は、私の嫌いな武人という人種で、初めて出会った日、正直、林燮とは生涯かけても、互いには分かり合えぬ、そう思っていた。
まさか、生涯、心を砕き、敬い合う友となろうとはな。』
その言葉に、藺晨は怪訝な顔になる。
『伴侶である母上よりも、林燮とは分かり合えると?。』
老閣主は笑っていた。
藺晨は以前から、不思議に思っていたのだ。
夫婦なれば、心を一つにして苦難を乗り越えるものだと。なのに父親は、昔から、藺晨の母親よりも、この林燮に心を置いている様に見えて、仕方がなかった。
男色というものがあるが、そうでは無いと。
何か、言葉には表せぬが、愛とか尊敬とか、そういったものを超越していると。
《そんな事が有り得るのだろうか。》
藺晨は、愛情こそが最上で、愛とは女子と育む物なのだと、ずっと思っていた。それ以上の情など有り得ぬと。
愛よりも深い情を、しかもいい歳の男と。
老閣主は、林燮の為ならば、命をも惜しまぬのだろう。
それが正に今なのだ。
老閣主は藺晨が、自分と林燮を訝るのに気がついた。
『小晨よ。女子であるとか、男であるとか、欲情とか、、、全く違うものなのだ。
ずっと琅琊閣で育ったお前には、分からぬだろうが。』
そう言われて、藺晨は些かムッときた。
『私は琅琊閣の外の世界に、一時(いっとき)身を置き、そして生涯の友を得た。奴とは色々あったが、出会った事は何よりの喜びだ。
今、私が林燮を救いに行けば、行った事で、琅琊閣に災いが及ぶかも知れぬが、それでも行かずにはおれぬのだ。私にとって林燮とは、そういう存在なのだ。』
老閣主は、代々守り抜いたこの琅琊閣が、潰される危険を犯してまで、林燮を救いに行くと。藺晨には理解し難い。
『我が伜よ。迅速さを良しとし、そして医術の腕も並外れている。才能は、同じ歳の私を超えているだろう。お前はあらゆる事に自信があり、結果にこだわる今のお前には、仲間など不必要だろう。文武に突出したお前は、一人で何でもやってしまう。
だが、人は人と共鳴し合うのだ。育ちも目的も違う者が共鳴し合い、事を成すのは、何と心地の良い事か。
今はまだ、お前は、己の運命をも掛けられる存在の意味が、分からぬだろうが。いつかお前にも、そういった存在が現れれば、私の気持ちが分かるだろう。
世界の光が変わるのだ、と。
父親として、お前に、もそういった友が現れることを、心から願っている。』
老閣主は、見た事も無いような穏やかな微笑みを湛え、藺晨の心を包み込む。
『、、、、』
そう言われては、藺晨には、返す言葉は無かった。
そして老閣主は、琅琊閣の、多少医術の心得のある者と、従者が数人、そして、琅琊閣に有る使えそうな薬剤の有りったけを持ち、早馬でさっさと出発した。
あまりに無謀だった。戦場に向かうのに、武装もしていない。腕に覚えのある、用心棒を連れている訳でもない。
藺晨は父親の姿に、些か呆れた。
父親はこの琅琊閣の閣主なのだ。頂点という立場の他に、この琅琊閣を守る責務がある。戦場なぞで、消えていい訳が無い。
どう考えても、藺晨の方が剣の腕も立ち、万が一の時は、難を逃れよう。だが老閣主は、自分が行かなくては、他の者では駄目だと言う。
無鉄砲が過ぎる。
戦さに巻き込まれば、老閣主自身の、命の危険すらあるというのに。
藺晨を残すのは、老閣主に万が一があった時、誰かが琅琊閣を守らねばならない。老閣主は息子に琅琊閣を託したのだ。
だが、もし万が一が起き、いきなり藺晨に琅琊閣を任されても困る。藺晨にもまだ、この琅琊閣を差配するだけの自信は無い。
それならばと、藺晨は用心棒になる者を数人集め、老閣主を追わせた。武術だけではなく、救護や力仕事に、何かとこの者たちは使えるだろう。せめて無事に帰ってきて欲しい。
そう思って、送り出したのを思い出した。
生涯の友、命までも賭けられる友とは、何ぞや。
そして白ザルが来た。