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熟成アンドロイド 前編

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 僅かに瞼を上げる士郎に、アーチャーは胸を撫で下ろした。
「じっと、し……て、いろ……」
 アーチャーの声が雑音とともに発せられている。
「な、なに? アーチャー? どうし――」
 士郎はアーチャーの顔面の半分が爛れていることに気づき、声を呑んだ。
「アーチャー? ケガ、っ、し、してる? っけほ! ぁ、ちゃ? ぅ、なんだか、あつい、」
「し……ロう、シし、……ろ……」
「アーチャー? や、やだ、やだよ、あーちゃ、しんじゃ、やだ」
「シ……ニハ、シ、な……い……」
 士郎を自身の身体で覆い、アーチャーは炎の勢いが増す中、その泣き顔を見ていた。
 泣かないでほしいと伝えたかった。
 だが、もう言葉を構築する機能も音を発する機能も停止していた。
 背中の人工皮膚が溶けていくのを感じている。アンドロイドは人に危害を加えないためにも痛覚を植え付けられているため、人と変わらない苦痛を感じている。
「し……ろ……ウ…………ろ……シ……ろぅ……」
 繰り返す名は、大切なマスターの名だ。
 ただ、声を上げる。言葉を織りなすことができないアーチャーは、士郎の名を呼び続けていた。



 放水の効果か、存外早く火がおさまり、消防隊員がカリス技研工業のエントランス部分に足を踏み入れる。独立の平屋建てで奥にある高層ビルと渡り廊下で繋がっていたエントランスは、受付のあったロビーも何もかもが一変し、真っ黒の煤だらけで瓦礫が散乱している。
 火元の中心は、高層部分へと繋がる渡り廊下から伸びてきた階段の中段部分。そこにあったはずの階段は失われ、その真上の天井は穴が開き、そこにいた数人のものだろう焼死体が瓦礫とともに地に散乱している。
 頻繁には目にすることのない爆発物の惨状の中を消防隊員たちは生存者を求めて捜索する。いくつかの遺体を発見しつつ、建物の隅にあたる場所で、消防隊員たちが黒い半球の物体を発見した。
「なんだ?」
「さあ?」
 爆風でロビーはめちゃくちゃだというのに、そこには明らかに不自然な物体がある。
「ん?」
 耳を澄まして、隊員は目を丸くした。
「誰かいる! この中だ!」
 床面と癒着した黒い物体をバールでこじ開け、その中に子供を発見し、状態を確認した隊員たちは生存者がいたことに歓喜する。大きなケガも酷い火傷もしていないその子供を抱きかかえ、すぐに救急車へ運ぼうとする隊員だったが、その子供は、ダメだ、と叫ぶ。
「アーチャーっ! アーチャーが、」
 軽度ではあるが火傷を負い、擦り傷らしいものもある子供だが、抱えられて外に出てきた消防隊員の腕をすり抜けてロビーへ行こうとし、ストレッチャーに乗せようとしても下りて、またロビーへ戻ろうとする。
「君! 危ないから――」
「士郎!」
 さすがに消防隊員も手を焼いて声を荒げようとしたとき、隊員の声を遮り、規制線を潜り抜けて駆けてきた者を見て、ぴた、と子供は身動きを止めた。
「士郎! ああ、よかった! もう、ほんとに、」
 隊員に腕を掴まれている士郎に駆け寄った切嗣は、がば、と抱きしめ、ちぢれてしまった赤銅色の髪を撫でる。
「じ、じーさ……、じーさんっ!」
 切嗣にしがみついて士郎は、必死に叫ぶ。
「アーチャーがまだ中にいるんだ! まだ、アーチャーがい――」
「わかった。わかったから、士郎は先に病院に行きなさい。アーチャーは僕が連れて行くから、ね」
「ほん、とに?」
 ひく、ひく、としゃくり上げはじめた士郎の頬を撫で、切嗣は頷く。
「ああ、必ず連れて帰るよ」
「ぜったい、だからね、くっきー、いっしょに、たべ、ようと…………おもっ……」
 ほっとして気が緩んだのだろう、士郎はそのまま意識を失った。
「士郎……」
 救急車に乗せた士郎を見送り、くるり、と踵を返した切嗣は、す、と目を細めた。
「あの子はどこにいましたか?」
 隊員に訊ねると、隊員は事情を説明した。そうして目を瞠った切嗣は拳を握りしめる。
「中に入らせてもらうよ」
「え? ちょ、ちょっと、だめですよ、まだここは――」
「ここには、大事なサンプルがある。それを回収するだけだ」
 士郎には見せたことのない仕事向きの顔をした切嗣がきっぱりと告げるが、消防隊員も安全を確認してから、と食い下がる。だが、
「すぐに回収を」
 切嗣は後に続いてきていたカリス技研工業の研究員たちに指示を出す。
「こ、困りますよ! 二次災害に、」
「申し訳ないが、僕も会社の未来を担っているので譲れないんだ。すぐに終わる」
 軽く頭を下げて消防隊員を押し留め、研究員たちを急がせた。遠巻きにだが、規制線の向こうには野次馬に紛れて報道のカメラがいくつも見受けられる。それらに見咎められないように切嗣は社内秘案件をどうにかしなければならないのだ。
 十分もかからないうちにビニールシートに覆われた物体を研究員たち数人で抱えてきたのを認め、切嗣は消防隊員に向き直る。
「無理を言ってすみませんでした。何かありましたら連絡はこちらにお願いします」
 名刺を渡し、切嗣は研究所のある研究棟の方へと向かう。子供の病院へはいかないのかと、消防隊員は呆れてしまった。
「カリス技研工業、主任研究員……。お子さんより仕事が大事なのか……?」
 消防隊員たちは、呆れながらも捜索を再開した。
 一方の切嗣は、研究棟にあの黒い物体を運び込み、ビニールシートを開けて言葉を失っている。
「うわぁ……、これは……」
 改めて真っ黒な塊を見て、その物体を運び込んできた研究員たち自身も顔をしかめている。
「お子さん、この中に?」
 今は発見時とは逆さになっていて、お椀のように中心が凹んでいる物体の内側を指でさし示す研究員に切嗣は頷く。
「あの子は、これのおかげで助かったんだよ……」
 黒い塊に触れ、切嗣はやるせないため息をつく。
 もっと早く端末の通信履歴に気づいていれば、いや、それよりも、なぜ今日に限って、着替えなどを頼んだのか、と悔やまれてならない。
 三体目の実用機の組み付けが終わり、とりあえずはひと段落だと、気を抜いた途端、眠気に襲われて昼休憩を仮眠に当てたことも、士郎たちと約束していた時間より寝過ごしてしまったことも、今日一日の何もかもに切嗣は憤る。
 現場に駆けつけたときに目の当たりにした惨状に、血の気が失せた。警報機の音に飛び起きて、端末を確認した瞬間に士郎が巻き込まれたことは容易に知れる。覚悟など決まっていない。ただ士郎を喪ったかもしれないという恐怖から逃れるように駆けていた。
 絶望感に抗うように、士郎の無事を祈りながら、消防隊員に連れられた士郎の姿を見つけたときは、膝から力が抜けそうになった。そして、士郎が無事だということは……、と切嗣には一つの確信が芽生える。
 原型すら留めていないその黒い物体がなんなのか、ひと目で切嗣にはわかった。士郎だけのシェルターとして爆風と炎熱から守り抜いたのは、士郎をマスターとするアーチャーだ。こんな形に変体する機能など持っていないアーチャーが、士郎を守るために己の駆体を無理やり変えていた。
「アーチャー…………」
 やるせなさに視界が滲む。
作品名:熟成アンドロイド 前編 作家名:さやけ