熟成アンドロイド 前編
「醤油切らしてたの、忘れてたんだね、アーチャー」
明日の弁当の下準備もあるために、いつもより少し早く夕食の準備をはじめようとしたアーチャーが、シンク下の扉を開けて愕然としたのは、ほんの一時間ほど前のことだ。
「すまない」
落ち込むアーチャーに、士郎は笑う。
「超高性能家事手伝いロボにあるまじき、だねー」
「ロボではない」
「俺はうれしいよ」
「何がだ」
まだ立ち直れていないアーチャーを士郎は見上げる。
「だって、俺とおんなじだもん」
「同じ? 何がだ?」
「忘れたり、ドジしたり、俺とおんなじだ」
アンドロイドとしてはどうなのか、とアーチャーは疑問を浮かべるが、士郎の笑顔にすべてが払拭される。
夕暮れに染まる空に、長く伸びる影に追われ、あるいは追いかけ、手を繋いで家路を歩く。その姿を見れば、二人は仲のいい兄弟のように見えるだろう。
「あ、」
「なんだ?」
「お出かけ、してる」
ひょい、と眉を上げたアーチャーに、
「どこかに行かなくっても、アーチャーと近くのスーパーに行くのも、お出かけだ」
そう言って士郎は屈託なく笑う。
「ああ、そうだな」
士郎の言葉が、笑顔が、アーチャーに人間の心を教えてくれる。アンドロイドという機械に感情というものはない。だが、AIが感情を学習し、それに則した言動を選び取っていく。
そうやって培ってきたアーチャーの“感情”が、今、うれしい、という最適解を導き出した。
「アーチャー、笑ってる?」
士郎が不思議そうに訊くと、口角が上がり目尻が下がり、アーチャーの顔に笑みが刻まれる。
「ああ、うれしいんだ」
人間のように湧き上がる感情ではなくとも、選び抜かれた結果である言動であっても、士郎にはなんら関係がない。
アーチャーがうれしいと言って笑う。ただその事実だけがそこにある。
「俺もうれしい」
アーチャーに微笑みを返し、士郎は繋いだ手を大きく振って、暗くなりはじめた家路を歩いた。
水族館へのお出かけの日は快晴だったが、冷たい風が吹いていたので、小春日和に馴染んでいた身体には余計に寒く感じた。
「ダウンにしておいて良かったな」
士郎の上着をどうするかと迷った挙句、ダウンのジャケットに決めたアーチャーは納得したようにひとり頷く。
士郎の手を握り直して視線を下に向けたアーチャーは、腰を屈めて士郎のマフラーを巻き直した。
「アーチャーは寒くないの?」
風が吹くたびに首を竦める士郎はアーチャーを見上げて訊くが、アンドロイドが寒いと感じたからといって風邪を引くわけではない。
「寒いという感覚を疑似的に感じているが、問題はない」
「それって、寒いの? 寒くないの?」
士郎が不思議そうに首を傾ける。士郎の歩みに合わせていた足を止め、アーチャーも首を傾けた。
「士郎は寒いと風邪をひくことがあるだろう? アンドロイドは、寒くても風邪をひかない、その違いだけだ」
いまいちよくわからない、と士郎は首を傾げたままで呟く。
「でも、寒いとは思うんだよね?」
「そうだな」
アーチャーは真っ直ぐに士郎を見つめて答える。
「はい」
士郎は先ほどアーチャーが巻き直したマフラーを解いて差し出す。
「士郎、何をしている。今日は風が――」
「アーチャーも寒いんだから、これ、巻いて」
「し、士郎……」
困ったように眉を下げたアーチャーは、士郎の傍に膝をつく。
「私には必要ない。これは士郎が風邪をひかないために、」
「でも、アーチャーだって、寒いんだから……」
「だとしても、主のものを、アンドロイドが、」
「アーチャーは家族だよ」
「…………」
真っ直ぐな瞳は、有無を言わせない。士郎の頑なさをよく知っているアーチャーは、これ以上何を言ってもだめだ、ということが理解できている。
「……では、士郎、巻いてくれるか?」
「うん」
にっこりと笑った士郎は、しゃがんだアーチャーの首にマフラーを巻いた。
「あったかい?」
「ああ、とても」
マフラーが、ではなく、士郎の気持ちが何より温かいと、アーチャーはそんなことを考えていた。
「またお出かけしようね」
「ああ」
水族館が思いの外楽しかったのか、士郎は帰りの電車でもバスでも居眠りすることもなく、あれがすごかった、これがよかったとリーフレットを片手にアーチャーに話していた。そうして、バス停から衛宮邸までの道を歩きながら、二人は次の約束の算段をはじめる。
「今度はどこに行きたい?」
「うーん……、そーだなー…………」
士郎は少し考えながら、首を捻っている。
「あ! サファリパークとか!」
「この間、テレビで紹介していたな」
「うん! 俺、ライオンに餌とかやってみたい!」
その光景を想像しているのか、士郎はキラキラと目を輝かせている。
少しでも寂しさを忘れることができたようだ、とアーチャーは次の計画を練るために、すぐに情報検索を開始した。
SERIAL.4
「お兄さんと仲がいいねぇ」
アーチャーと出かけると、いつもそんなふうに言われた。
商店街の店主や売り子、新都のデパートの店員、行きつけのスーパーのパートのおばちゃんたち。様々な人たちが、口を揃えてアーチャーを士郎の兄だと勘違いしていた。
士郎はその言葉に、気恥ずかしさを覚えながらも、うれしくて仕方がない。そして、アーチャーも微笑が面に出るほどにはうれしいと感じていた。
「アーチャー、俺たち、兄弟みたいに思われてる」
内緒話をするように士郎が小声で話すので、アーチャーは腰をかがめ、士郎に耳を寄せて聞き耳を立てる仕草をする。その様子を見かけた道行く人々は、仲の良い兄弟だと微笑ましく思って通り過ぎていった。
「そのようだな」
頷きを士郎に返し、身体を起こしたアーチャーは士郎の手をしっかりと握って歩き出す。
士郎とアーチャーには身長差があるために、内緒話をするとなると、士郎を抱き上げるか、アーチャーが士郎に合わせてしゃがむかしなければならない。
もちろん、アーチャーの耳は、そんなことをしなくても士郎の声を拾っている。だが、そういう動きをすることは、人間世界に溶け込むために必要なことだと学習しているので、アーチャーもそれに倣っている。最初は機械然としていたアーチャーだったが、士郎と過ごすうちに成長し、人間の所作や行動パターンなどをあらゆるものから取得していた。
いかに違和感なく、人間らしく行動するか――――。
カリス技研工業のアンドロイド――衛宮切嗣の造るアンドロイドは、そこまでの完成度を求められているのである。
現状、アーチャーのようなアンドロイドはいまだ実用化には至っていない。普通なら、機密事項として他社に漏れないよう、内々に隠すものだろう。
本来ならばアーチャーは自由に表を出歩けるような存在ではないのだ。それを切嗣は、アンドロイドには経験が必要だからと実験を兼ねて、我が子に社運を賭けたと言っても過言ではないアンドロイドを託している。
作品名:熟成アンドロイド 前編 作家名:さやけ