熟成アンドロイド 後編
「起きなくていいと言った」
「ふーん……」
アーチャーが眠っていた修復室で、遠坂凛はテトラパックの野菜ジュースを飲みながら気のない応答を返す。
「だから、私は、」
「衛宮くんの本心なの? それって」
「士郎は嘘をつかない」
「えーっと、嘘とかそういうことじゃなくって……」
「私は士郎を泣かせてばかりいる。もう、廃棄したいのだろう」
「バカね。そんなわけないじゃない。あなた、引き取られるのよ?」
「引き取る?」
「衛宮くんが、あなたを持ち帰るってこと」
「そんな、馬鹿な……」
「本当よ。手続きの書類が出てたもの」
アーチャーは理解ができていないのか、不思議そうに凛を見ている。
「結論を急ぐことないんじゃない? 衛宮くんはあなたを廃棄しないんだもの。さっさと衛宮くんのところに行きなさいよ」
「そういうわけにはいかない。士郎は起きなくていいと、」
「じゃあ、その理由がわかるまで、あなたは寝たフリをしていればいいんじゃないかしら?」
「だが、それは、士郎に嘘をつくことに、」
「あのねぇ! あんたが勝手に“死んじゃったら”それこそ衛宮くんを裏切ることになるんじゃないのっ?」
「っ!」
アーチャーは目を瞠る。
“死なないで”と何度も士郎に請われた。
士郎は泣きながら訴えていた、アーチャーに死んでほしくない、と。
「わかったなら、絶対に自分勝手な判断をしないこと。いい? 何がなんでも衛宮くんの本心を引き出すのよ。それがあなたにとっても衛宮くんにとっても最善の結果になるわ」
「…………善処する。ありがとう。君は……、名は、なんといった?」
「遠坂凛よ。さっき自己紹介したでしょ?」
「あ、ああ、そうだったな。士郎以外はどうでもいいので、聞いていなかった」
「はあ?」
凛が青筋を立てて血相を変えるのを、アーチャーは首を傾げて見ている。
「ぐぬ、あんた、ちょっと、その仕草は、なんな、っむぐ」
「静かに」
突然アーチャーの手に口を押さえられ、それを押し除けた凛は眦を吊り上げた。
「な、何するのよ!」
「士郎が来る」
「へ?」
「早く出ろ」
「うわわわわかったわよ!」
慌てて凛は修復室を出ていき、アーチャーは腰に巻いたシーツを外してストレッチャーに仰臥する。シーツをかぶり、目を閉じたところで士郎の足音が止まった。しばらくすると扉が開く。
「アーチャー……」
近づいてくる気配がすぐ近くで止まり、そっと髪を撫でる手が優しく触れてきた。
(士郎……)
瞼を上げそうになる。
だが、それを堪えて、アーチャーはじっと感覚だけを研ぎ澄まして士郎を感じていた。
「アーチャー、今書類にサインしてきたよ。一緒に帰ろ……。あ、でも、家に今日行くのは無理か……」
士郎はしばし考え、
「仕方ないな。とりあえず、俺の部屋に運んでもらうよ。それで、運搬の手配をしたら、家に帰ろう」
自力で歩かないアンドロイドは、士郎一人で家まで運べるような重さではない。持ち上げることができたとしても、抱えて歩くのは無謀だ。
ストレッチャーではかさばるし、荷物用の台車はなんだかアーチャーが気の毒だし、と士郎は考えを巡らせて、結局、車椅子を用意してもらい、運ぶのも手伝ってもらうことにする。
士郎が今、住居としている研究棟の敷地内に設置されたコンテナハウスは、元々は研究員たちの第二の仮眠室として置かれていた。
息抜きになるだろう、という会社の気遣いだったが、研究熱心(平たく言えば、オタク気質)な研究員たちは、メインフロアを離れることを嫌い、結局のところ研究棟にある椅子や床に寝袋で、という形で仮眠をとる。したがって、コンテナハウスは士郎に用意されたような住居になっていた。
研究者というものは、どうしてものめり込む者が多い。それを痛いほど知っている士郎は放っておけず、社員食堂から研究棟に善意でデリバリーをしている。そうしなければ餓死者が出るような状態のため、士郎も家に帰るに帰れないことが多い。そのため、ここに住んで良いという許可をもらったのだ。
「えーっと、どうしようかな……」
コンテナハウスとはいっても、それほど広くはなく、ベッドを二つ置けるような広さはない。どこかの部署が何かのときに使用して処分に困っていたコンテナハウスだ。そうそう都合のいい、広く快適な物ではない。
「椅子にってのもなぁ……」
ソファなどがあればそこに座らせてオブジェのようにしてもいいかもしれないが、ここにソファなどなく、また、ソファを置くスペースもない。しかも人で言えば素っ裸の状態のアーチャーでは、いくらアンドロイドだからといっても、テーブルとセットになった椅子に座らせておくのは、ちょっと見た目的に問題だ、と判断した。
雑然とした室内を見渡し、やはりアーチャーはベッドに下ろすことに決めた。
運ぶのを手伝ってくれた総務部の者は車椅子を押しながら戻っていく。それに礼を言って見送り、アーチャーに掛けていたシーツを剥いで布団を掛ける。
すでに動かない、マネキンと大差ない物体であり、アンドロイドでもあるので寒いと感じたとて風邪もひかないと知っていながら、見た目が人間と変わらないために、つい士郎はそういう行動に出てしまう。
幼い頃にアーチャーとそういうふうに過ごしていたからか、アンドロイドと人間を区別することが士郎には難しい。
「ふぅ……」
色が失われてしまったアーチャーの髪をまた撫でて、冷たい頬に触れてみる。起動しているとき、カリス技研工業のアンドロイドは人間の体温より少し低い温もりを持っている。
「もう、起きないんだ……」
改めて噛みしめるアーチャーの“死”が、胸を締めつける。
この、動かない高価な人形をどうすべきか、と考えても、今の士郎に答えなど出せるはずもなく、
「は……」
ため息をこぼして、今は自分の身の置き所をどこに確保するか、と部屋を見渡す。アーチャーをベッドに横たわらせてしまうと、士郎の寝るスペースは全くなくなってしまった。
「仕方ないか」
ふあ、と欠伸をして椅子に腰かけ、テーブルに突っ伏す。
「疲れたなぁ……」
今日と明日は休みなさいと料理長から指示されて、士郎は無理やり明日まで休暇を取らされた。
元気なつもりだったが、身体は疲れているようだ。もう少しで死ぬかもしれないという低酸素状態だったこともあり、やけに身体がだるい。
休息が取れるような体勢ではないままだが、すぐに士郎は眠りに落ちた。
「士郎……」
身体を起こしたアーチャーはそっと士郎に歩み寄り、抱き上げる。ベッドへ寝かせようとして、はた、と思い至る。
「これでは私が運んだと気づかれてしまう……」
散々思考回路をフル活用した挙げ句、アーチャーは士郎を胸に抱いたままベッドに寝転んだ。
「これならば、寝惚けてここに来たとでも思うだろう」
アーチャーは士郎の髪を撫でながら、その温もりに安堵する。
アンドロイドの重要な部品である核を守ってくれたのは、小さな士郎の手だった。
死なないでと願ってくれたのは、幼い士郎だった。
今、目の前にいるのは、十九歳の士郎だ。あれから十年が経つ。
「士郎……」
赤銅色の髪に鼻先を埋め、変わらない柔らかさに目尻が下がる。
作品名:熟成アンドロイド 後編 作家名:さやけ