熟成アンドロイド 後編
アーチャーのシャツを握りしめ、そこに顔を埋め、士郎は子供のように泣いた。十年分のため込んだ想いを吐き出すように、ただただ止まらない涙と嗚咽をアーチャーの胸に落とした。
ひく、ひく、といまだにしゃくり上げているが、少し落ち着いた士郎は、時折、ずず、と鼻を啜り、あやすように髪を撫で、背中をさするアーチャーにされるがままになっている。
「……士郎、長く、待たせてしまった。それから、」
いつ頃廃棄されるのだろう、と訊かなければならないのだが、その言葉が口から出ない。
「アーチャー……、なんで、寝たフリなんか……してたんだよ……」
アーチャーが言葉を紡ごうと四苦八苦している中、士郎に問われる。とりあえずは、それに答えることにした。
「士郎が、起きなくて、いいと……」
「え?」
がば、と顔を上げた士郎は泣きはらした目を真っ赤にしている。
「培養液から出たすぐ後に、士郎が来てくれただろう? そのときに、起きなくていいと士郎は……」
「あ、あのときから、起きてたのか? でも、起動音も、熱も、」
「まだ起動はしていなかった。表面温度も培養液に浸かっていたときとあまり変わらなかった。だが、…………ずっと声は聞こえていた。聴力だけは破壊されることはなく、士郎の声を聴いていた」
「え? …………ぁ……、そ、そっか…………そう、だったんだ……」
「それで、私は……、いつ、廃棄されるのだろうか?」
「は?」
「士郎の命令に従わなかったのだ。廃棄されて当然だろう?」
「め、命令なんて、してな――」
「もう起きなくていいと士郎は言った。ならば、私はその言葉に従わなくてはならない」
不貞腐れたような顔をしたアーチャーに、士郎は大きくため息を吐く。今さらアンドロイドの定義を真っ正直に遂行するなど馬鹿げている。士郎にとってアーチャーは、兄であり弟であり、家族なのだ。機械でできていたとしても、言動が選りすぐった範例と経験の結果であっても、それはすでに人の感情や情動と同様である。士郎にとってアーチャーは、たった“ひとり”の存在だ。
「そうだけど……、そうだけどさっ!」
ぺち、とアーチャーの頬を両手で挟み叩き、士郎はその胸に顔を埋める。士郎自身が濡らしたアーチャーのシャツはじっとりとしていて、その不快感に眉根を寄せた。
「目が覚めないんなら、もう、覚めない方がいいと思ったんだ。俺を庇って傷を負って、修復もままならなくて……。っ、だけど、目が覚めたんなら、一番に顔を見て、声、聞きたいだろ!」
ぎゅう、とアーチャーは士郎を抱きしめる。何を意図してのことなのか、アーチャー自身説明ができない。その行動は、人であれば当たり前のことなのかもしれないが、アンドロイドであるアーチャーが自発的にそういう行動に出たことは、“謎”だと処理される。
「士郎……」
ため息とともに名を呼ぶことも、歯車が急加速することも、第二段階の警告アラームが体内に鳴り響くことも、そうしてアーチャーの躯体すべてに熱が回ることも、アンドロイドであれば説明がつかない。
士郎の言葉は何よりアーチャーを高揚させる。この説明のつかない自身の現象に、アーチャーは答えを見出せない。おそらく、その正答は士郎から教えてもらわなければならない事柄だろう。
「ぅ、バっ、カ、あーちゃ、し、締め、すぎっ!」
アーチャーは力を込めた覚えはないのだが、士郎は物理的な締めつけで、息が詰まりそうになっている。
「あ、ああ、すまない」
アーチャーが腕を緩めれば、さっと身体を起こした士郎が見下ろしてくる。顔が赤いのは息苦しかったからなのか? と疑問が浮かぶ。それに、まだ不可解なことがある。アーチャーが読み取れる士郎の鼓動の速さも体温も、通常とは違うものなのだ。
違うといえば、士郎の容姿も十年前とは違っている。
「士郎、大きくなった」
「今、十九。今年二十歳になるんだ。アーチャーが守ってくれたおかげで」
まだ赤い士郎の頬に手を伸ばし、そっと撫でて、うれしそうに笑うアーチャーに、士郎もうれしくなったのか、笑ってくれた。
「おかえり、アーチャー」
「おかえり? 私は、どこにも、」
行ってはいないのに、とアーチャーは首を傾げる。
「俺の所に帰ってきてくれただろ? だから、おかえり」
士郎が説明すると、
「ただいま、士郎」
身体を起こし、士郎を抱きしめ、アーチャーは澱みなく答えた。ずっと言えずにいた、その言葉をはっきりと。
「う…………、だから、アーチャー……、苦しいって……」
「す、すまない」
再度同じように慌てて腕を緩めるアーチャーに、士郎は、くふくふと笑う。
「アーチャー、色が変わってしまったな……」
「色?」
「うん。肌とか、」
そう言って士郎はアーチャーの手を取る。
「そう、なのか?」
「え? 気づいてないのか?」
「ふむ。そう言われれば、士郎とは違う色だな」
士郎の手を自身の手と比べてアーチャーは納得したように呟く。そのまま指を絡めて握れば、士郎の身体と鼓動が跳ねた。
「士郎?」
「っ、な、なななな、なん、なに、して、」
にぎにぎ、と士郎の手を握っていると、どんどん体温が上がっていく。
「士郎? 熱が……、どうした? 大丈夫なのか? 風邪をひいたのか?」
心配そうに訊くアーチャーに、士郎は顔を逸らし、
「な、なんでもないっ!」
真っ赤な顔で声を荒げた。
「士郎……」
見てわかるほどに、しゅんとしたアーチャーに気づき、士郎は慌てて取り繕う。
「ご、ごめん。な、なんでもないんだ、ほんとに! だ、だから、手、は、離して、」
アーチャーは握った士郎の手を眺める。これを離せと士郎は言う。だが、
「離したくない」
「え?」
「まだ、こうしていたい」
「え? ええっ? ちょ、っ、ちょっと、そ、それは、おおお俺が、」
「ダメか?」
士郎の手を握り、空いた手をさらに添えて俯き、上目でねだるアーチャーに、士郎の方が音を上げた。
「ううぅ、い、いいよ…………」
恥ずかしさはどうしようもない。だが、アーチャーが望むことは叶えてやりたい。長い時間を修復に費やし、自分のためにすべてを捧げるアーチャーに、強い拒否など、できるわけがないのだ。
士郎の手を握って、頬に当てるアーチャーの唇が手の甲に当たる。恥ずかしさはどうしようもなくて、士郎の顔はカッカしてきている。それでも、安心した顔で士郎の手に甘えるように頬をすり寄せるアーチャーの仕草が可愛くないわけがない。
身体は成長した士郎より、いまだにアーチャーの方が大きいというのに、可愛いとは何事だ、と士郎は自分自身につっこみたいが、その仕草というものは、当時と変わっておらず、今の士郎にとっては、可愛いと思ってしまう部類に入る。
「髪も、目も……」
色が変わってしまったのは、それだけ修復が大変だったという証なのだろう。それでも自分の許に戻ってきてくれたアーチャーをうれしく思うが、その執念に近い忠義心に胸が痛む。それがアンドロイドとしての定義であるとするならば、とても悲しい存在だと士郎は思ってしまう。
握られていない手で白くなったアーチャーの髪を撫で梳き、頬を指先でなぞれば、鈍色の瞳が士郎を見つめる。
作品名:熟成アンドロイド 後編 作家名:さやけ