熟成アンドロイド 後編
それでも動きはない。
「っ……、だめか……。消防隊が到着すれば、すぐに通せるように手配を!」
室長はサーヴァントに頼むことを諦め、傅育エリアへ向かった。
「どうだい?」
「なんとも」
バールなどで強化ガラスを割ろうとするが、人の手では限界がある。何しろこの特殊強化ガラスは、サーヴァントの力でも簡単に壊せないような代物なのだ。出入り口であるガラスドアの電気制御の鍵は、中にいるSV―9909が手を突っ込み癒着させて動かないように固定し、ドアが開けられない。
室長が何度説得してもSV―9909は聞く耳を持たず、こちらを見もしない。
「時間が……」
室長が腕時計を確認した時、曲がり角の通路の向こうに黒い影が立ったのを研究員の一人が発見した。
「なんだ?」
「誰?」
そちらに気づいた研究員たちが口々にささやく。室長も何事かと目を向け、あ、と口を開いた。
「き……君は……」
「だ、誰だ、あんた。ここは、部外者――」
「士郎は、どこだ」
歩みを止めた研究員を押しのけ、低く声を吐き出す者に研究員たちは驚いたまま、口を閉ざして見ているだけだ。
長身の屈強な身体に白いシーツを腰に巻いて、裸足で近づいてくる者に誰も口を開けない。不審者にしか見えないそのいでたちの男は、研究員たちの見知った者ではなかった。
「士郎は、どこにいる」
再び声を発したその男の声は、地を這うように低く、ドスがきいていた。
「こ、この中だ! 早くしないと、死んでしまう!」
呆気にとられていた室長が思い出したように叫び、SV―9909の個室を指し示す。
黒い影を纏ったような男は明るいところで見ると、褐色の肌をしている。そのため、暗い廊下では黒い影にしか見えなかったのだ。
室長に示された強化ガラスの向こうで倒れている士郎を認めた男は目を剥いた。鈍色の瞳が揺らめき、ガンッ! と派手な音を立ててSV―9909の個室の強化ガラスに拳をぶつけている。
一瞬の出来事に研究員たちは何が起こったのかわからなかったが、頑強なガラスが、ぎしり、としなっただけでひびすら入っていないことに落胆の声を吐き出した。
「チッ」
舌打ちした男に研究員たちは固唾を飲みながら、疑問ばかりを頭に浮かべている。
強化ガラスを素手で割ろうと無謀なことをするあたり、人ではないとわかるものの、サーヴァントであれば、研究員たちもその顔貌は知っている。だが、室長以外は誰ひとりその男を知らない。であれば、新規に起動したサーヴァントかとも考えるが、彼は身体的にも内面的にも完成されている様子である。
今、この研究棟にいるサーヴァントで完成間近の駆体は三十六体だ。それ以外の製作途中のサーヴァントはいまだ容姿に定型がなく、あまり特徴のある姿ではないし、単独で動けるものでもない。
その上に特徴的なのは、このサーヴァントの肌が褐色という特殊さで、髪も白銀という滅多に使われない色合いなのだ。
士郎の安否もさることながら、彼の正体に疑問を浮かべ、ざわつく研究員たちを傍目に、体勢を立て直した黒いサーヴァントは改めて拳を構える。
今度は歩幅を調整し、腰を落とし、しっかりと拳を握りしめた。
踏み出した足下の床に貼られたPタイルがひび割れ、すべての力が溜め込まれた右拳が強化ガラスに叩き込まれる。
みし。
鈍い音とともに、強化ガラスにひびが広がる。男がさらに拳を突き込むと、呆気なく強化ガラスは粉々になった。強化ガラスは耐久力を超えた衝撃を受けると、粉々になるのが特徴だ。確かに強化はされているが、度が過ぎた衝撃には、崩壊するように粉々になる。
「士郎!」
振り返りもせず、散らばるガラスをものともせず、半裸の男は“ゆりかご”の中に入り、士郎を抱き上げて出てくる。
「医務室へ!」
室長が指示し、若い研究員が士郎を抱えた男を先導する。その走り去った姿を見送り、室長は、ふ、と頬を緩めた。
「あの……、室長、今のって?」
「ああ、士郎くんのサーヴァントだよ」
驚きが研究員たちの間に広がる。
「え? 士郎くんって、サーヴァントは要らないって、」
「ど、どういうことですか、室長?」
「あんなの、どこに?」
次々と質問責めにされて取り囲まれる室長は、
「まあまあ、その話は後々。とりあえず、この子の処置をしないと、ね」
SV―9909を振り向き、ふう、と室長は息を吐いた。
――死なないで。
――ごめんなさい、アーチャー。
声が聴こえていた。
懐かしい幼い声。
泣きながら謝って、しゃくりあげていた。
士郎の声はいつもアーチャーに届いていた。煤けた塊の状態でも、濁った液体の中でも……。
――起きなくていい。
ずいぶんと久しぶりに聞いた、低くなった士郎の声が発した言葉は、アーチャーに衝撃的に突き刺さった。触れられた士郎の温もりに目を開けようとした瞬間のことだった。
もう不要になったのか、とアーチャーは気落ちする。
もう己の必要性などないのだと、このまま廃棄を待つだけなのだということを知った。
その矢先、けたたましい警報機の音に、二度と開けるまいと思っていた目を開けてしまった。
研究棟内に流された室長の声に、アーチャーの核がすでに反応していた。
『士郎くんを助けてくれ!』
ぽ、と胸に熱が灯る。
次第に熱が全身に回っていく。胴体から四肢へ熱が灯り、やがて身体を起こす。
「士郎……」
幼い士郎。
切嗣がいなくて寂しいくせに、いつも寂しいと口にできない不器用な士郎。
優しい士郎。
死なないで、と必死に核を守ってくれた士郎……。
アーチャーはストレッチャーから足を下ろす。多少の油切れ感があるが、問題なく立ち上がることができた。身体に掛けられていた白いシーツは、士郎が掛けてくれたものだ。培養液から出されたアーチャーには、ビニール素材のシートが掛けられているだけだった。
『こんなの、気持ち悪いだろ?』
そう言って、士郎はビニールシートを剥ぎ取り、綿のシーツを掛けてくれていた。それを腰に巻き、扉を開く。
「ゆり……かご……」
アーチャーにも覚えがあるその名称は、傅育室のことだとすぐにわかる。そこを目指し、足を踏み出した。
だが、アーチャーが見知っていたカリス技研工業と誤差があり、傅育エリアに辿り着くまでに時を要した。
ようやく見つけた士郎は“ゆりかご”の中で倒れている。
勢いに任せて拳を叩きつけたが、強化ガラスに阻まれてしまった。
士郎はまた、命の危険にさらされている。そしてアーチャーは、あの日と同じく、士郎を死なせるわけにはいかない。
どれほどの時が経ったのか、どれだけ士郎を待たせたのか。
切嗣にいつまで士郎を放っておくのかとぼやかれ、それでも動けない己の身体を呪い、士郎の声も気配も感じられない日々が寂しくて、もう己は必要ないのだと告げられてもなお、アーチャーにとって、士郎だけがマスターであり、何よりも大切で、何があっても守り通す存在だ。
今度は少し落ち着いて体勢を整え、力を溜め、規則正しく回る歯車の速度を上げていく。
オーバーヒートではなく、自主的な力の解放。
作品名:熟成アンドロイド 後編 作家名:さやけ