ポケットいっぱいの花束を。
姫野あたるは激しいくしゃみをした。風秋遊の所有する山の麓にある〈センター〉と呼ばれる二階建てのコンクリート建造物にて、寝泊りを始めてちょうど一週間が経とうとしていた。
姫野あたるは、キッチンで湯気ののぼる温かいコーヒーを淹れた。ふと見上げたキッチンにある時計を見ると、時刻は午前八時を過ぎた頃であった。
「さ、っむいでござるな~」
「おはよう」
そう言いながらもっさりとした寝ぐせヘアーでキッチンに入ってきた四十代の男は、茜富士馬子次郎(あかねふじまごじろう)、通称夏男(なつお)と呼ばれる姫野あたるの友人であった。今はこの〈センター〉の管理人、兼、住人である。
「おお、夏男殿。おはようございますでござる」
「ダーリン、朝早いんだね。そういえば、なんか昨日思い出の旅に出るって言ってたけど、結局、何時に寝たの?」夏男はテーブルにあった煙草を一本だけ取り出して、口に咥えた。ライターを眼で探す。
「昨日は、未央奈ちゃんの出身地、岐阜について色々調べてから、寝たでござるよ。深夜の、三時ぐらいだったでござるかな」
煙草に火を点けた夏男は顔を驚かせた。
「えー、よん、ごお、……五時間しか寝てないじゃん!」
「有意義だったでござるよ」
「へー、う、さぶ!」夏男はストーブを見る。「ダーリン、ストーブとか暖房入れないと、ここは凍死しちゃうよ?」
「あ、そうでござるな。今さっき起きてきたばっかりゆえに、まずはコーヒーをと思って。夏男殿もどうでござる? ホット・コーヒー」
「うん。貰うよ」
朝食は当番制だった。この日は、夏男がベーコン・エッグ・サンドを作った。
窓ガラスはすっかり凍り付き、窓の外にはつららが見える。うっすらと森林の景色も窺えた。
「未央奈さんって、どんな人なの?」ふと、朝食を食べながら夏男が言った。
「奥深いでござるよ」あたるは微笑ましく言う。「まず、一見さんは知らぬでござろうが、彼女は非常にひょーきんでござる」
「面白い人なんだ」
「そこでござる。面白い人と、聞かれると、その一言ではしっくりとこない人なんでござるな、未央奈ちゃんは」
「だから、どんな人なの?」夏男は顔を不気味に笑わせた。「聞いてんじゃん」
「ひょーきんでござる」
「いや合ってんじゃんじゃあ……」
「未央奈ちゃんは、脇の体操というコントを作り出した天才でござるよ。かと思えば、美に詳しく、本人も美の象徴のように、とても美しい人でござる」
「ふうん……」夏男は微笑ましく、あたるの話を聞いている。
「多趣味で、好きになった事を、きっと追及するんでござろうな……。博識なところも魅力的でござる。かと思えば、メンバーに頭良い人ぶる、と言われたり。はは、とにかく最近知った言葉を連呼して無理やり使いまくったりと、可愛らしい面も持つ、本当に不思議な人でござるよ」
「大好きなんだね。ダーリンの好きが伝わってくるよ」
「そうでござるな……。好きというには、もっと大きすぎる存在でござる。未央奈ちゃんは、小生(しょうせい)のヒーローでござるゆえ」
「ヒーローか」
「はい。小生が心の闇に彷徨(さまよ)った時に、救い出しに来てくれる、スーパーヒーローでござる。好きというには、少々対象が大きすぎる」
「何をしてくれるの?」
「何がでござる?」あたるは真顔で返した。
「心の闇に、さまよったんでしょう? 未央奈さんは、どうやって救い出してくれたの?」
「ああ、そうでござるな……。何というか、価値観、みたいなものを語ったりするでござるよ、未央奈ちゃんが。たまーにでござるが。その言葉の内容に、助けられたりするでござる」
「へー、笑顔に、とかじゃないんだ?」
「笑顔に助けられるのはもちろんでござる。でも未央奈ちゃんは、割と精神的な世界にまで入り込んで助けてくれるでござるよ。はは、小生は弱い人間でござるから、何度助けられたか」
「それより、あの、ダーリン。その髪型は、イメチェン?」
「んんこれでござるな」あたるは笑顔でチリチリのヘアスタイルを触った。「ドライヤーで焦げたでござるよはっはっはー……。難しいものでござるなー、ドライヤーとは」
「考え耽(ふけ)りながらドライヤーしてたんでしょう……」
「気が付いたら、パーマがかかってたでござるよ」
「考え耽りながら、火とか扱わないようにね、危ないから。卒業の気持ちもわかるけどさ、安全第一だよ?」
「夏男殿、煙草がとぼってるでござる」
「ああ! もったいない……、数少ない趣向品が……」
「さああ、今日は何をするでござるかな!」
「一日中、携帯いじってるよねえ」
「何をするかが重要なんでござるよ!」
「はいはい。もう一本吸おうっかな~……」
午前中を終えると、夏男は最寄り駅の笑内(おかしない)駅まで買い出しに出て行った。姫野あたるはこの日も登山を希望していたが、夏男の「雪山には近づくなかれ」という言葉を守り、〈センター〉内で一人携帯電話を使い、堀未央奈の懐かしい映像を観ていた。
昼を終え、やがて景色に暗がりが広がりを見せる頃になると、姫野あたるの心に悲しみの渦がやってくるのだった。
堀未央奈が乃木坂46を卒業するという、その一念だけが、姫野あたるを毎晩泣かせている。
卒業は、誰にでもやがては訪れるものだ。姫野あたるも、そう理解している。
おめでとうとサヨナラは異なる。しかし、乃木坂46の卒業においては、どちらも同じベクトルに存在しているのではないか。姫野あたるはそう思考を傾けるが、一向に答えが出る事はなかった。
夜の闇に、鳥の鳴き声がたまに響いていた。
何故に、自分は素直に卒業を見送れないのだろうか。風秋夕や稲見瓶、磯野波平や駅前木葉なんかは、それぞれが強い忠誠心の元、卒業をしっかりと受け入れている。
どうして、自分だけは泣いているのだろうか……。
「ダーリン」
「……はい」
常夜灯(じょうやとう)の灯った〈センター〉の入り口で、扉を開いたまま、闇の景色を覗き込んで泣いている姫野あたるに、夏男は声を掛けた。
「未央奈さんが、好きなんだね。どうしようもないくらいに」
「……はいっ、っ……はい」
「今までの未央奈さんが好き? これからの未央奈さんが好き?」
「?」あたるは、涙を拭って、夏男の方を見た。「どっちも好きでござる……」
「じゃあ、気持ちは変わらないじゃない」
「……」
「卒業していく事は、一種の進化でもある。決断と変化でもあり、日々眼慌(めまぐる)しい毎日からの脱出、それは一種の安らぎでもある」
「……」
「男の子が泣くんなら、理解して、ちゃんと泣きなね」
「……」
あたるは、顔を下げ、力いっぱいで目を瞑る。
「……みんな、卒業を悲しんでいるでござる、だけど、ちゃんとその時まで、笑っているでござるよ……。小生は、どうしていいのか、この、気持ちに整理がつかないでござる……」
「本当にそう思う?」
「?」
「みんなね、それぞれに出来る何かをしてるんだ。ただ泣く事だって正しい。けどね、笑っているその人達は、見えない場所で、絶対に、泣いている。それを、何かの形にする事で、涙だけじゃない悲しみの忘れ方をしているんだよ」
「悲しみの、忘れ方……」
また、姫野あたるの瞼、に涙が溢れてくる。
作品名:ポケットいっぱいの花束を。 作家名:タンポポ