その先へ・・・7
どれ位そのままでいたろうか?ユリウスの体の震えはゆっくりと止まり始めたようで、ようやく落ち着いてきた。
「なぁ、ユリウス……」
泣きはらした頬を手のひらで優しく包み、まだ涙がたまっている赤く染まった目元をそっと親指でなぞった。
「……」
「ドイツでのおまえの話をしてやろう……」
涙を含んだ瞳が少し見開かれた。
「前にも話したな。お前の黒髪の相棒、イザーク。やつには一人妹がいて、おまえは彼女の事を大層気にかけていた。兄の才能を信じ、ただひたすらに高みへと向かわせる為に、彼女はまだ年若いのに町の市場で働いていた。おまえはそんな彼女を何度も訪ねていたとイザークから聞いた」
潤むユリウスの瞳の奥に、わずかな光が宿ったのを見たアレクセイは、ゆっくりとその先を続けた。
「おまえの事をまだ名家の御曹司と思っていたおれは、初めは妹に気があるのかと思っていた。だが、どうやらそういうわけでは無さそうだったから、ただの気まぐれなのか、それともイザークの妹に懸想していた野郎へのあてつけかと思っていた。まぁ、あまり気にもとめてはいなかったんだがな。だが今ならわかる。おそらくおまえは、イザーク兄妹の事が他人事に思えなかったんじゃないか?」
ユリウスの碧い瞳が不思議そうにアレクセイを見つめる。
「おまえは幼い頃、母親と2人で暮らしていたと言ったよな。おそらく細々と暮らし苦労したんじゃないか?嫌な目にも、つらい目にも何度もあったんだろう。弱い立場にいる彼らに、少し前の自分達の姿を重ねていたのかもしれない。だからどうしても放っておけなかったんだろう。……自分だって辛い境遇を抱えていたのにな」
ユリウスはまっすぐにアレクセイを見つめていた。閉ざされた記憶の向こう側にいる自分を懸命に探しているのかもしれない。アレクセイはそのまま話を続けた。
「本来のおまえはまっすぐで、優しい気持ちの持ち主だ。弱いもの、理不尽な扱いを受ける者に対して見せる正義感や弱い立場にいる者への優しさをおれは覚えている。今のおまえも、過去を失っているにも関わらずそれは少しも変わらないんだな。自分の事は顧みず無茶をして、おれをハラハラさせやがって……。やっぱりおまえはおれがよく知るユリウスだ。あの頃のまんまのな……」
必要以上に虚勢を張り、近づくものを拒絶していたユリウス。生意気で、口より先に手が出て、御曹司のクセに口が悪くて……アレクセイはにやりと笑い、ユリウスの頬を軽くつまんだ。
「い、痛いよ、アレクセイ」
「これくらいなんだ。おれはなぁ、おまえに初めて会った時いきなり張り倒されたんだぜ!あの頃のおまえときたら、人を寄せ付けず、周りにあまり心を許さず、一見冷ややかだが誰より激しく喧嘩っぱやかったんだぜ。教室で、通学路で、嫌がらせを受けるイザークを何度も庇い、騒動を巻き起こしていた。多分おれよりも礼拝堂へ行く回数はあったように思うぜ」
「礼拝堂?」
「『礼拝堂で聖書暗唱!』やんちゃな学生は必ずこう言われて、寒い礼拝堂でひたすら暗唱をやらなければならなかったんだ。これがけっこう辛くてな……。おまえはある教師に特に目をつけられていたな。言い渡される度に盛大な文句を吐いていたんだぜ」
アレクセイが語る自分の武勇伝が信じられず、他人事のように感じられる。
風の音に怯え、闇から現れる悪魔を恐れ、レオニードやヴェーラにすがるばかりだった自分とは、あまりにも違う自分。
「……なんだか、ずいぶんな……言われようだけど……。信じられないよ。本当にぼくがそんな事を……」
落ち着いてきたのだろう。小声で言うユリウスにアレクセイもホッとして彼女の前髪を軽くかき混ぜた。
「なぁ……、おれは……こう思うんだが……」
「……」
「おまえの失われてしまった過去に、何かあったのかもしれない。だが、何もなかったのかもしれない。あったのかもしれない事に怯えても答えは記憶の向こうなのだろう。であるならば、何もなかったと信じようじゃないか」
「で、でも……」
彼女には上を向いてほしい。失われてしまった過去のその暗闇の向こうからの影に怯える事無く。
アレクセイは優しく言葉をつなぐ。
「おれが思うに、おまえはおそらく大切な誰かを全力で守ったのだろう。おまえはそういうヤツだからな。守られた誰かはおまえに感謝したはずだぞ。さっきのガリーナの様にな。そんな自分に誇りを持て!おまえの勇気で救われた人は多い。記憶の向こうにいる誰かも、ガリーナも、イザークも、おまえが救ったんだ。そして……おれも救ってくれた」
「……?ぼくがあなたを……?」
「……大切な……、決して失ってはいけないモノをまた手放してしまう愚か者になる所だった」
「……」
「性懲りもなく、またおまえを手放してしまうところだった」
アレクセイの瞳はさっきまでと変わらずまっすぐにユリウスを見つめていた。
心の闇を聞かされても怯むことなく受け止めてくれた。恐れる事無く抱き留めていてくれた。
アレクセイは何もかもを受けとめてくれるのだ。記憶を無くしてしまった事も、こんな風に心に闇を抱えている事も。
得体のしれないモノに怯えていても……。
ユリウスは自分の心がスウッと軽くなっていき、アレクセイへの想いで胸が熱くなっていった。
「アレクセイ……」
震える手でアレクセイの頬にを触れた。
「……ずっと……あなたの側にいて……いい?」
「……」
「あなたを……好きでいて……いい?」
頬に触れるユリウスのしなやかな指はアレクセイの頬を優しく包み込んだ。
まっすぐにアレクセイを見つめる瞳はあのころと変わらず自分をとらえて離さない。まだ涙をはらんでいる分仄かな光を柔らかく反射させ美しい輝きを放っている。
ドイツの暖かな日差しを写し取ったかのように明るくきらめく時は、陽気に 笑い、流れる音楽に身を任せ、周りの生徒を魅了した。勝ち気な性格のまま鋭く光ったり、かと思うと心の弱さをさらけ出し濡れて揺れいた。
忙しくクルクルとよく変わる瞳に魅入られ、捕らわれ、そして……。
「ユリウス……おれは……」
アレクセイは頬を包んでいるユリウスの手に自分の手を重ね、ギュッと握った。