その先へ・・・7
「あっ!いてっ……!!」
穏やかで、甘い空間に変わるかと思われたズボフスキー家のリビングに、およそ似つかわないユリウスの声が響いた。
慌てて彼女の手を見ると、白く優美な手には不似合いな赤みが残っており、少し腫れてもいる。さっきの綺麗な右ストレートの後遺症だった。
「おい、何故黙っていた?……ったく……!洗面器とタオルはどこだ?」
腰を上げて取りに行こうとするユリウスを押しとどめ、アレクセイは洗面器とタオルを用意した。
窓を開けて片手いっぱいの雪を洗面器に入れて暖炉にかざして冷水を作り、大丈夫だと言うユリウスの意見には全く耳を貸さず、赤みの残る右手をテーブルの上に引っ張り上げ、濡らしたタオルを手にあて冷やした。
「今日はこんな事ばかりしている」
憮然としたアレクセイにユリウスが恐る恐る口を開く。
「誰の手を冷やしたの?」
「……黙ってろ」
白く滑らかな手は少し腫れており、親指で少し押すと「いたっっ……!」と声を上げた。
「ほらみろ……。ったく……」
いつもアレクセイを翻弄し、彼の予想を遥かに超えた無茶ばかりやってのける小さな手。
アレクセイは諫める様に少しきつめにタオルでくるんだ。
「いっ……、痛いよ‥‥」
「黙ってろ!……ったく……、少しはおれの身にもなれよ……」
「……ごめんなさい」
口調とは裏腹に、ひどく優しい手つきで手当してくれるアレクセイの手を見つめた。こんな風にじっくり彼の手を見るのは初めてだった。
大きくて、意外に滑らかで指が長い。そして右手の甲には痛々しいほどの傷跡が残っている。
以前バイオリンを弾いてくれた時や、二人っきりになった時にはわからなかった。
この傷を負ったからバイオリンを弾けなくなったのだろうか?傷を負ってさえもあんなに素晴らしい旋律を奏でる才能を 革命活動のために捨て去ってしまったのだろうか。
「アレクセイ……あの……」
「もう……」
アレクセイの優しい声がしてユリウスは顔を上げた。
「もう無茶はするなよ」
「……」
「少しはおれの身にもなれよ」
「……」
ユリウスの手許を見つめる表情は髪に隠れてはっきりとは見る事は出来ない。けれど垣間見える鳶色の瞳が、なんとなく潤んでいるようにも見えた。
アレクセイはタオルを何度も冷水にさらし、ユリウスの手を冷やした。
シンとした居間にタオルを絞る水音だけが、やけに大きく響いていた。
「大丈夫か?」
こくんと一つうなずいた。
「気持ちいい……」
タオルの冷たさとわずかに触れるアレクセイの手のあたたかさ、そのどれもが心地よい。
ユリウスはうっとりと目を閉じて心地よさに身を委ねていた。
「なぁ、ユリウス」
「ん……?」
「これ、持っていてくれないか?」
アレクセイは懐から包みを取り出しテーブルの上へと置いた。
「これは?」
アレクセイは包みの中から、赤いリボンでくくられた手紙の束と2枚の写真を取り出した。
「これ……」
「この世に二つとない、おれの兄貴の形見だ」
アレクセイによく似た黒髪の男性と美しい女性が穏やかに微笑んでいる姿が目に飛び込んできた。
「おれの兄貴だ。隣は兄貴の婚約者。これと同じ写真をおまえに見られて、おれの秘密をおまえに知られたんだぜ」
「……お兄さん、あなたによく似てる」
「いい男だろ」
思わずブッと吹き出した。
「あ、あははは…!もう、あなたって!」
……すっかりアレクセイのペースに乗せられたユリウスの心は、いつの間にか震えがおさまっていた。