ボクのポケットにあるから。
ふと居眠りをしていた。風秋夕は瞼をこすって、深呼吸を済ます。昨晩の生配信は素晴らしいものだった。松村沙友理は最後まで笑っていた。
地下巨大建造物〈リリィ・アース〉の地下二階エントランスのメインフロア、その東側のラウンジで、風秋夕はアイス・コーヒーを飲む事にした。
あの日を思い出す間に、笑みが浮かび、稲見瓶が起きてきて、磯野波平が遅れて寝ぐせをつけたままで東側のラウンジまでやってきた。
「あんだ……、お前ら、早えな……」
磯野波平は寝ぼけた顔で、ソファに腰を下ろした。
「おはよう。夕、夕」稲見は波平に挨拶をしてから、夕に言った。「おはよう……。何考えてるの?」
「こいつが笑ってっときは、なんかおもしれえ時だ」磯野はそう言った後で、大きな伸びをした。
風秋夕は、思い出していた……。
横浜アリーナが鼓動する――。赤のサイリュウム一色となった会場に、それぞれの思いが反映されている。
二千二十一年六月二十三日、さ~ゆ~レディ? さゆりんご軍団ライブ・松村沙友理乃木坂46卒業コンサートが行われる。
影ナレの諸注意は松村沙友理からの手紙形式になっていた。
時計の針が、十七時三十分をさした次の瞬間に、それは開始された。
スクリーンにさゆりんご軍団の歴史が語られている。
ライブ配信でそれを見つめるのは、乃木坂46ファン同盟の五名であった。
〈リリィ・アース〉の地下六階に存在する巨大な映画館のような〈映写室〉にて、五人は真剣な面持ちでスクリーンを見つめていた。
五人の姿はすっかりとさゆりんご一色に染められている。
オーバーチャーは松村沙友理の鼻歌であった。
「始まった……」夕は誰にでもなく呟いた。
「始まっちまったか……」磯野も誰に言うでもなくそう言った。
登場したのは松村沙友理、佐々木琴子、伊藤かりん、寺田蘭世だった。メンバー紹介の時、中田花奈も登場した。衣装はさゆりんご軍団を象徴とする赤のりんご衣装である。松村沙友理はツインテールであった。
この空間が懐かしい――。姫野あたるは配信画面のスクリーンの奥に存在するだろう観客席を思い浮かべて、そう思った。
この星空のような、星の一粒一粒が、自分と同じくしてそこに集結した人間達なのだろうと。ただただ、松村沙友理が大好きで仕方がない、ファンという一つの宇宙を形成する要素なのだと。
それを、何だか誇らしく思えた。
二番目の楽曲『白米様』が始まると、会場中のスティック・バルーンが鳴り響いた。
松村沙友理を筆頭に、さゆりんご軍団は、歴史ある楽曲達を披露していく。そのどの楽曲にもそれぞれの思い入れがあった。
「白米様とさゆりんご募集中、すげえ好きなんだよ」夕はそう言って微笑んだ。
「名曲な! ガチでよ!」磯野もそう言って笑った。
稲見瓶は、スクリーンを真っ直ぐに見つめられずに、息を殺して泣いていた。
『さあ始まりました~!さゆりんご軍団、イン、横浜アリーナ~!』
自己紹介を終え、本格的にさゆりんご軍団解散ライブである事がトークにより明らかにされる。
『さゆりんご軍団は好きですか~?』
『松村沙友理さんは好きですか~?』
佐々木琴子が会場を盛り上げた。
ブイティアールがスクリーンに映し出されると、一般人やファンの人々がさゆりんご軍団の解散を知らされ、残念な心情や、応援メッセージを贈っていた。
どこか、やらせっぽいブイティアールであった。
次の楽曲が流れる。『さゆりんごが咲く頃に』であった。作詞は松村沙友理である。
続いて『何度目かの軍団か』が始まった。
風秋夕はその楽曲の懐かしさと、コミカルな歌詞に、何度も頷きながら笑みを浮かべた。
『ハウス』の楽曲に合わせて、さゆりんご軍団の替え歌『ライス』が歌われる。
楽曲が終わる度に、叫びたいであろうオーディエンスがスティック・バルーンを大きく叩いた。
ブイティアールがスクリーンに映し出される……。さゆりんご軍団に様々な応援メッセージが寄せられる。
続いての楽曲『りんごのパクリから』が始まる。曲中に真夏さんリスペクト軍団が楽曲を取り戻しに乱入してくる一面があった。
松村沙友理と秋元真夏が楽曲終了後に言い争うも、それが演出であり、本当は仲が良いという事を松村沙友理のアナウンスが発表し、二つの軍団が一つとなり、『大嫌いなはずだった』を歌い始める。
真夏さんリスペクト軍団が暗中にそでにはけ、続けて『働き方革命』が歌われる。
松村沙友理の思い入れの籠ったトークが展開する――。メンバーがさゆりんご軍団解散への思いを語っていく……。
ブイティアールがスクリーンに映し出される。JAグループ代表から、なんと米俵六十俵が松村沙友理へと贈られた。ナレーションを担当したのは、松村沙友理の大好きな声優の堀江由衣であった。
『さゆりんご軍団は、解散しません!』
会場から拍手が舞い上がる。
どうやら解散というのは演出だったらしく、さゆりんご軍団は存続との事であった。
さゆりんご軍団としては最後の一曲となる『さゆりんご募集中』が始められる。
「あーすっげえ好き!」夕は楽曲を噛みしめるように、眼を瞑って言った。「サビがたまんねえ!」
「ヤバいよな!」磯野も、珍しく夕に賛同した。「この曲の魅力がよぉ、さゆりんご軍団のなんか変に良すぎる魅力を現わしてんぜ! なあ!」
稲見瓶と姫野あたる、駅前木葉は、合いの手コールに夢中であった。歌もユニゾンで共に口ずさんでいる。
『ありがとうございま~す!』
さゆりんご軍団の楽曲を全て歌い終えた後、伊藤かりんは「五十年後にライブやろう」と言った。「五十年後、まっちゅんは、何歳?」と。
松村沙友理は、少しだけ考えた後で、大きく微笑むと、「十三歳!」と元気よく答えた。
駅前木葉は、それに頷くと同時に、涙を零す……。何かを発声しようとしたが、声が出なかった。
『さゆりんご軍団でした~! さんきゅ~、ベリマッチョ~!』
「おいマッチョっつったぞ今!」磯野は溢れんばかりの喜びを顔つきと音量で現わす。「聞いたか今おい! サンキュー、ベリマッチョ~って言ったぞ確かに!」
「マッチョはお前だけじゃねえだろうに」夕は嫌そうに磯野を一瞥した。「休憩か……」
ライブは一時、休憩時間に突入した。
「いやあ、涙って、止まらない時は止まらないもんだね」稲見は眼鏡を拭きながら四人に言った。笑顔だった。
「小生、こんなにもさゆりんご軍団に支えられていたとは、正直わからなかったでござる!」あたるは鼻水をすすって、顔を歪めて言った。「ゆえに! 愛しいでござる~!」
「はあ」駅前は涙を拭いて、深呼吸をした。
改めて会場にオーバーチャーが鳴り響いた――。
楽曲が流れる。『さ~ゆ~レディ?』である。
稲見瓶は、この楽曲のダンスを改めて見たが、あまりの可愛さに高揚し、赤面していた。
赤と白のドット柄のドレスを身にまとった松村沙友理の笑顔は、最強だった。
『乃木坂~、踊れ~!』
集合した乃木坂46が、松村沙友理をセンターとして『ガールズルール』を大音量で開始する。
こんなに、名曲だったのかと、風秋夕は身をすくめた。
作品名:ボクのポケットにあるから。 作家名:タンポポ