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ボクのポケットにあるから。

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 稲見瓶は〈リリィ・アース〉地下二階にある北側の巨大な扉の奥に存在する個人部屋にて、アイス・コーヒーを淹れたところだった。
 デスクに座り、厳選しておいた資料と格闘するが、どうも思考がうまく回らない。私有の時間に行うこの作業は、仕事でも課題でも同じようなものだ。既存する理論を用いて実験を想定しての理論形成をし、次には違う眼でそれを否定的に検証する。要は間違い探しだ。
 なぞなぞを作る作業と少しだけ似ている、と稲見瓶は思っている。しかし謎は創る側よりも解きほどく方が何倍も低燃費で面白い。そちら側に回れるのは、いつの日だろうか。ふと、そんな無駄な事を考えた。
 二時間程が経過した頃、稲見瓶は溜息をつき、デスクの机の引き出しを開け、乃木坂46の写真を取り出した。
 メンバー達は笑っている。こんな時間が、いつまでも続くと、本当に思ってしまっていた。そんなわけはないのを知りながら、とても安泰な安らぎや絶大なる興奮の渦に、その身を任せるまま、時を経ていった。
 人は生まれながらに、死へと向かって生きている。だが、それを全盛期に意識にながら生きている者はほとんどいないだろう。それに、似た事なのだろうか。
眼にも見えない粒子の世界で、まず最小と知るのは原子だ。しかし原子の中にも原子核と電子に分かれ、原子核は更に陽子と中性子に分けられる。更に陽子は三つのクォークから出来ていて、中性子も三つのクォークから出来ている。陽子はアップクォーク二つとダウンクォーク一つで成り立つ。中性子はダウンクォークが二つに、アップクォークが一つだ。
 最小と思った原子の中には更に最小なものが存在する。それを意識しないでいるように、在るものを見つめないようにしてきたのか。
 インターフォンが鳴った。稲見瓶は振り返って、立ち上がる。
 玄関まで行って、確認をせずにドア・ロックを解除した。
「やあ」稲見は微笑んだ。「どうぞ」
 来客は伊藤純奈と渡辺みり愛であった。
「イナッチの部屋って初めてじゃない?」純奈は顕在的に大きな眼を見開いて言った。
 幾何学的な模様のブルーの絨毯が敷かれた床と、壁を隠すように置かれた背の高い本棚と、シンプルな木製のテーブルと、それを囲うように設置された四つのソファが置かれたリビングだった。
 二人は雑談をしたままで着席する。稲見瓶はドリンクの用意に無言でキッチンへと向かった。
「何で呼び出されたの?」純奈はにやけながらみり愛に言った。「やっぱり、そつ」
「卒業、だからじゃないの~」みり愛は言葉を濁しながら言った。
「それにしても、本棚しかないねえ」純奈は部屋を見渡して言った。「漫画本とか、一冊も無いんだけど」
「あ、あった、ワンピース」みり愛は本棚に見つけた漫画本を指差した。「読むんだね、漫画とか……」
 俺の頭脳がもしも、量子コンピューターだったなら、同時にこんな複雑な組み合わせ最適化問題を綺麗に処理できていたかもしれない。
「アイス・ココアでいいかな」
「いいよー」と純奈。
「ありがと」とみり愛。
 稲見瓶はソファに着席した。
「困ったな……、言いたい言葉が、見つからない。俺は基本、クローズ・テクスチャだから、何を言いたいか、見当もつかないでしょう?」
「うんまあもう言ってる事がわけわかんないけど」純奈は笑う。
「卒業、の事? でしょう」みり愛は伺うように言った。
「ああ、そうともいう……。けどね、そうじゃないんだ」稲見は頬をかりかりと指先でかいた。「まず、みり愛ちゃんセンターの風船は生きているは、本当に名曲だった。それに、純奈ちゃんセンターのマイルールは、ほんとに、胸が熱くなったよ……」
「ありがとう」二人ともがそう苦笑した。
 渡辺みり愛があのライブで伊藤純奈に、ファンに、語った事……。

『たぶんお互いが一番話しやすい環境だったと思います。だから辛いときは純奈に助けてもらったし、逆に純奈が辛いときは私が助けたいとずっと思っていて、今回もアンダーライブでたくさん打ち合わせして、一緒にショパンをやれて幸せでした』

『メンバーはアイドルだけど、一人の普通の女の子だから、いつみんなのもとから離れてしまうかわからないじゃないですか。だからその時の為に、全力で愛してあげてほしいし、推しメンに愛情を伝えてあげて下さい』

『僕には、私には、あなたが必要だよと。口に出して言ってあげて下さい。後悔無いように大好きな人と過ごして下さい』

 そして、伊藤純奈があのライブで渡辺みり愛に、ファンに、言った事……。

『みり愛と同期で活動出来て本当に良かったです。私のいいところなんて数えるくらいしかお見せ出来なかったと思うんですけど、伊藤純奈のことを推していて良かったと思っていてくれたら嬉しいです』

『今日ここで私の乃木坂人生のライブが終わるなんて信じられないんですけど、歌っているところや踊っているところが好きだと言ってくれて、本当にありがとうございました』

『本当に一生分の愛をもらったと思います』

 稲見瓶は、俯けていた顔を、二人へと向けた。「みり愛ちゃんが、純奈ちゃんが、必要です。大好きです……、ありがとう」
 そう言った稲見瓶に、伊藤純奈と渡辺みり愛は少しだけ顔を驚かせた。
「ありがとう」すぐにそう言った純奈は笑っていた。
「どしたの、改まって」みり愛も笑顔である。
「発表から、ラストライブまでがあまりにも短かったからね」稲見はそこで、小さく深呼吸をした。「言いそびれた言葉と、気持ちが沢山あってね。本人達に、伝えたくて」
「夕君にも言われたよ、ありがとうって」純奈は可笑しそうに笑顔で言った。
「波平ちんも言ってくれたし、ダーリンと駅前さんからはお手紙もらった」みり愛も微笑んで稲見に言った。
「ちゃんと伝わるかな。本当に、……ありがとう」稲見は深々と頭を下げた。
「ありがとう」みり愛はそう言ってから、純奈に言う。「ありがとうって言いなよー!」
「……はっはっはっ」純奈は不意を突かれたかのように笑いだした。「はっはっは、ありがとう」
「いつも舞台で大きい声出してんでしょ」みり愛は言った。
「舞台でな」純奈は楽しそうに答えた。
 電脳執事のイーサンがデザートの到着を知らせた。稲見瓶はキッチンまでそれを取りに向かう。
 稲見瓶がトレーに載せて運んできたのはモンブランだった。
「もんぶりゃんあるよー」純奈はそれを見てみり愛に言った。「みりの好きなもーんぶりゃーん、知ってるよー、あんたいっつもコンビニでもんぶりゃん探してるもんねー」
「もーんぶりゃーん!」みり愛も笑顔だった。「もーんぶりゃーん、もーんぶりゃーんやー」
「さあ、どうぞ」稲見は満面の笑みで言った。
 二人はモンブランをおかわりした。
 稲見瓶はアイス・コーヒーを飲む。無言の時間が流れていった。
「ねえ、何か喋ってよ……」純奈は稲見に言った。「無言じゃん、ずっと」
「ん? じゃあ、春と言えば、何かな?」稲見は抑揚無く言った。
「ミモザ」純奈は答えた。「好きなんだよね」
「えなに、春といえば?」みり愛は考える。「花粉症?」
 伊藤純奈は笑い声を上げる。
「イナッチは何なの? 春といえば」みり愛は稲見に言った。