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ポケットの中の夏。

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 巨大スクリーンから、二人の手を振る姿が消えた。〈映写室〉の会場にライトがつく。
「最高の配信だった。変わらないね、この二人は。変わらないできっといてくれる」
 稲見瓶はリクライニング・シートから立ち上がった。風秋夕も、磯野波平も立ち上がった。
「あれ、泣いてるんでござるか?」
姫野あたるは笑みを浮かべる。その頬にも涙が零れていた。
「うっせえ……」
「さあ、みんな。忘れんじゃねえぞ、二人の笑顔。これからも推してこうぜ!」
 風秋夕はそう言って、磯野波平の頭に手を置いた。
 磯野波平は声を殺して泣いている。
 駅前木葉はそれに微笑んで、出口へと歩みを進める。
 姫野あたるも、涙を拭い、歩き始めた。
「やっぱ乃木坂だな」
 稲見瓶はそう呟いて、歩き始めた。

       10

 秋田県のとある山の麓(ふもと)にある、二階建てコンクリート建造物の〈センター〉という場所にて、現在、姫野あたるは生活をしている。〈センター〉の管理人の茜富士馬子次郎(あかねふじまごじろう)こと通称夏男(なつお)が唯一(ゆいいつ)の話し相手であった。
二千十一年八月十九日である。
 今はどっぷりと夜が更けていた。
 姫野あたるは〈センター〉の出入り口に立ち、常夜灯に照らされた付近の風景を、眼を凝らして見つめている。
 この野太い樹木どもが、夜という闇を一層険しく際立たせている。恐怖にも等しい夜の暗闇を、どうして儚(はかな)く思うのか。
 こんなにも狂気な黒の闇に染まる景色に、どうして安らぎを与えられるのかが不思議でならなかった。
 自然とは、そもそも、計り知れないものなのだろうと、姫野あたるは理解する。
 大自然の持つ力とは、その人の精神状態を反映させる鏡の様な魔力を秘めているに違いない。
 どうして、卒業があるのだろうか――。
 姫野あたるは、歯を食いしばって、涙を堪(こら)えた。
 〈センター〉の出入り口から、夏男が心配そうに顔を出した。
「ダーリン……」
「はい、でござる……」
「泣いているの?」夏男は、そう優しく囁いた。
「まだ、ぎり……泣いてないでござる」あたるは、無理やりに、俯いたままで微笑んだ。
「泣いてもいいんだよ」夏男は微笑んだ。「誰かが、卒業するんだね……」
「はい。大園桃子ちゃんと、伊藤純奈ちゃんと、渡辺みり愛ちゃんが、卒業するで、ござる……」
「二期生さんと、三期生さんかな?」
 姫野あたるは顔を上げた。夏男を見る。「はい……」
 夏男は画期的な変顔で待っていた……。
「ん、何でござろう……」
「うん、いや、ね」夏男は変顔をやめる。「ほら、元気出るかな、と思ったから」
「怖かったでござるよ」あたるは顔をしかめた。「食われるかと思ったでござる……」
「うんまあ、ほら、ね。何にせよ、新鮮な空気になったじゃない」夏男は微笑み直した。
「ありがとうございます。かたじけない」あたるも、笑みを浮かべた。「伊藤純奈ちゃんと、渡辺みり愛ちゃんとは、おわかれができたでござる。涙なしでは語れぬ、八年という硬い時間で結ばれた、温かい別れでござった……」
「ふーん、そっか」
「正直、桃子ちゃんには、卒業、してほしくないでござる」あたるは顔を歪ませた。
「たぶんだけどね。そのぉ、桃子さん? は、最初に卒業を意識したタイミングは、今じゃなかったんじゃないかな」
 姫野あたるは、力いっぱいに眼を瞑(つぶ)る。
「なんとか頑張ってきてくれたんじゃないかな、それこそ、ボロボロになりながら」
「わかってるんでござる!」あたるの眼から、涙が流れ落ちた。「桃子ちゃんは、緊張のしすぎで、気絶した事もあるでござる……。泣いてばかりで、本当に、心配ばかりしていたでござる……」
「今、桃子さんは、笑顔なんじゃないかな?」夏男は微笑んでいた。
「……」
 姫野あたるは、大園桃子を思い出す。その顔は、見事なまでの笑顔であった。
「笑ってるでござる……」
「卒業をだよ、卒業なんだよ? 卒業を決意した子達は、なぜかね、しゃんと胸を張って、凛々(りり)しく、大きく笑うんだ」夏男は思い出すかのように、微笑みながら言った。「乃木坂としては、終着駅だからね。いや、途中下車かな。乃木坂は続いていくからね。みんなを見送りながら、途中下車する勇気って、どれぐらい必要だと思う?」
「世界中の、勇気の、半分ぐらい……」あたるは泣いていた。
「そうだよ。それこそ、本当にそれぐらいの覚悟と勇気がないとできない決断なんだよ。だから、それを決意した後は、最後まで、笑えるんだ」
「梅ちゃんが何度も止めたらしいんでござるが、桃子ちゃんの気持ちは変わらなかったみたいでござる。本気ゆえに……」
「見送るぅ? それとも」夏男は微笑む。「見送れない?」
「見送るでござる!」あたるは叫んだ。「桃子ちゃんと出会った時の小生は、もう更生(こうせい)して、ちゃんとした小生だったでござるよ。だからちゃんと、最後まで付き添えるでござる……う、うぅ……桃子ぢゃんの、ラストステージまで…っ…」
「愛されてるなー、桃子さん。あは」夏男は笑みを強化した。「俺もアイドルやるなら、最後まで愛されてたいな~。桃子さんは、ちゃあんと最後まで愛されてる。これが桃子さんのやってきた事の、アンサーなんだよ」
「アンサー……、答え」あたるは呟いた。
「うん。今まで桃子さんがやってきたことは、決して無駄じゃあなくて、一生の宝物になる、て事だよ」
「ああ…ああう……、なつ、夏男さんと、喋れて、良かっだでござるぅ……」
 姫野あたるはその場に、泣き崩れた。
 卒業とは、行くと決めた道のりで、必ずいつかは必要となる覚悟だろう。それを無くして進むべき道のりなど、この世に在りはしないのだ。
 昔、学んだ事がある。時間と速度の関係を。そう考えると、五年とは、決して短いものではないらしい。白紙の赤ん坊が、五歳というちゃんとした小さな人間に成り立つ時間だ。
 その長い時の中で、自分はどれぐらい、大園桃子と時と心を絡める事ができただろうか。何度叫んだのだろう。大園桃子という、生涯忘れもしない尊いその名を……。
 あと、何度叫べるのだろう……。
 時間というのは、生き物だ。儚い速さをもった夢を見せる魔物だ。全てにおいて時間は共有財産となる。ならば、本当に一瞬一瞬を、大切に、大事にしていかなくてはならない。
 時間の中で生涯を過ごし、時間の中で過ごした全ての事柄が、思い出へと変わるのだから。
 どれだけの朝を繰り返し、どれだけの夜を繰り返して来たのか、計算すれば、おのずと数字という結果での答えは出てくるだろう。しかし、思いは違う。
 どれだけの朝を迎え、どれだけの夜を泣き、笑い、そうして過ごして来たのか。僕らは乃木坂46という光の中に飛び込んでいく虫だ。燃え尽きるとわかっていても、そこへ飛び込まずにはいられないのだ。それこそ、人生を賭けて……。
 乃木坂46という光の中にこそ、唯一無二の、答えがあるからである。
「桃子ぢゃーーーーんっ!」
「そう、その意気だよ」
「僕は虫だーーー!」
「ええー?」
「飛び込んでいくよっ、君の所にーーーーっ!」
「虫って……ダーリン何? どういう事ぉ?」
「夏男さん、明日の朝、東京に帰ります!」
作品名:ポケットの中の夏。 作家名:タンポポ