ポケットの中の夏。
「やめろ波平こらっ!」理々杏が叫んだ。磯野は満面の笑みである。
三期生の大園桃子は、恐怖に絶句している。
「波平君、落ち着こう?」綾乃が言った。磯野は満面の笑みである。「とりあえず、ねえどこ行くの? どこ行こうとしてるの!」
「止まれぇ!」珠美は笑いながら叫んだ。「止まれぇこのゴリラぁっ!」
磯野波平はぴたり、と止まり、阪口珠美を満面の笑みで見つめる。
「やばっ!」
阪口珠美は、咄嗟(とっさ)に人影に隠れた。
既(すで)にぐったりとしている梅澤美波をそっと、優しく立たせてから、磯野波平は集まった乃木坂46を順番に凝視していく……。
「やめなよ……」
弱々しくそう言ったのは、大園桃子だった。
「そう、だな!」磯野は桃子に微笑んだ。「桃ちゃんがそう言うんなら、やめにすっかあ!」
大園桃子は皆に称賛される。磯野波平は満面の笑みで、「わっなになになに!」と叫ぶ岩本蓮加を肩にしょい込み、歩き出した。
「お父さんお母さん! れんたんを、いただきます!」
磯野波平はそう叫んで、岩本蓮加を肩に担いだままでエレベーターの方向に、ゆっくりと歩行していく。
岩本蓮加も、足をばたつかせるなど、激しく抵抗を試(こころ)みたが、むなしかった。
「やめなって波平君!」麗乃は大声で叫んだ。磯野は満面の笑みである。
「波平君ご飯食べよっ! 一回落ち着こう!」葉月も叫んだ。磯野は満面の笑みである。
「波平君っ、夕君が来たよ!」楓は咄嗟にそう叫んだ。磯野は満面の笑みである。
「ダメだ、止まらない……」美波は体力を消費して、溜息をついた。「疲れた……」
「どうしよう」史緒里は辺りをキョロキョロとする。「あ……」
「おろしてってばねえ!」蓮加は激しく抵抗する。磯野は満面の笑みである。
「あ痛てえっ!」磯野はアホ面になる。
そこに、鬼の形相の風秋夕が現れたのであった――。たった今、磯野波平に落としたげんこつは、まるで最高神ゼウスの怒りの雷の一撃の様であった。
磯野波平は、すっ――と、岩本蓮加を丁寧(ていねい)に床におろした。
「決着(けり)をつけようぜ……、波平」俯(うつむ)き加減(かげん)で、夕は鋭く磯野に言い放った。
「貴様の死をもってな」見下すように、磯野は夕に威圧的に言い放った。
「キング・オブ・ファイターズの草薙京(くさなぎきょう)と八神庵(やがみいおり)のセリフだね」稲見は溜息をつきながら、無表情で誰にでもなく説明した。「ガチ切れ禁止、のはずだからね。まさかね……」
乃木坂46が見守る中、二人の男が自身のプライドを賭けて向き合った……。
5
「ボディがっ、がら空き、だぜっ!」夕の身を屈めた三連続のボディ・ブローが磯野の両脇腹にヒットする。「フン!」
その場に膝から崩れ落ちる磯野波平、背を向けて振り返る風秋夕。
「俺の……、勝ちだっ!」片腕をだるそうに上げた夕の背中に、磯野波平の強烈な前蹴りが入った。「っぐ!」
風秋夕は片足を突き、後ろの磯野波平を睨みつける。
「そんなボディの二つや三つで終わるわけねえだろう。この実力の差を忘れるな、月を見るたび思い出せ!」
「へっへ、燃えたろ?」風秋夕は立ち上がる。
両腕を開いた磯野波平は、真っ直ぐに風秋夕を見下ろし、不敵に笑みを浮かべていた。
「すぐに楽にしてやる!」磯野は威圧的に言い放った。「貴様の全てを灰に変えてやる、血染めの真っ赤な灰にな!」
「燃え尽きるのはてめえの方だぜ!」
両者の拳が飛び交いそうになったところで――。天使の声が響き渡った。
「お願い、やめてよ……」
そう言ったのは、涙ぐむ大園桃子であった。
ピタリ――とケンカは収まった。
「やめる、桃ちゃん」磯野は笑みを浮かべて言った。「ごめんな、強いとこ見しちゃって」
「桃子ちゃん、ごめん。やめたよ」夕も桃子に微笑んっで言った。「でもまだガチじゃなかったんだ。ゲームのまねして戦ってたから」
「でも、本気で殴ってたよ?」桃子は泣きべそをかきながら言った。
「まあね、六十%ぐらいはね」夕は改めて頭を下げた。「ごめん、ケンカして悪かった!おらお前も言え!」
「悪いごめんなーみんな!」磯野も苦笑して頭を下げた。「こいつがケンカ売ってくっからさあ」
「てめえの横暴が許せなかったんだよ……」
「桃ちゃん、なんか食うか?」磯野に、桃子は頷いた。「買ってきますっ!」
「さ、みんな。またぶらつこう。せっかくのお祭りだ」
風秋夕はそう言ってから、人並みの奥に見つけた齋藤飛鳥の方へと走って行った。
「あっすかちゃーん!」夕ははしゃいで飛鳥に挨拶した。「おおー与田ちゃん! 美月ちゃん!」
一期生の齋藤飛鳥は、霜降り牛タン屋台の前にある、スーパーボールすくいの出店にて、三期生の与田祐希と同じく三期生の山下美月と一緒に遊んでいた。
「おお、夕君」飛鳥はしゃがんだままで挨拶を返した。「やります? これぜーんぜん取れないの」
「なにこれ。新しいユニットか何か?」夕は飛鳥と祐希と美月を見つめる。「スリー・ホールド・チョイスでも映像研の3色パンでもないし……。ビジュアル強めが三人も集まって」
「いやあ、与田っちょ、はあ、こうやって、起きてますかー」飛鳥は祐希の肩を持ってがたがたと震えさせる。「今日は眼を開けてますかー。てね、先輩として」
「ううう……」祐希は眼を回す。
「先輩としての教育か」夕はにこやかに言った。
「そうです」飛鳥は美月を見る。「こいつはー、やまはー、少し舐めてっから、スーパーボール十個の刑」
「あーんまたダメだっ……。夕君、やって」美月は小首を傾げて可愛らしく夕にお願いした。「あと二個なの、取って」
「はい。取ります!」夕は無料の専用ポイを手に取って、水の激しい流れを心に感じてみる……。「一個!」
「すごーい!」と美月。
「ほおお」と飛鳥。
「おー」と祐希。
「俺の地元にカエルすくいあったもん。でけえウシガエル、すくったもんだぜー」夕はノスタルジックな顔と口調で三人の女子に言った。
「うえっ、それすくってどうするの?」飛鳥は眉間に皺を寄せながら夕に言った。「まさか、食べないよねえ?」
「んー? 俺はすくったら、店に返してたけど、みんなは飼うんだよ、そのカエルを」夕はにこやかに説明した。
「あすくえた!」美月のポイの上には中くらいのスーパーボールが不安定に乗っていた。
「よし!」飛鳥は立ち上がる。「クリアだな!」
「何の集まり、これ?」夕はまだしゃがんでいる祐希にひそひそときいた。
「わかんない。飛鳥さん、軍団? ふふ」祐希もそう言ってから、立ち上がった。
会話を楽しみながら少し歩くと、見慣れない看板が出ていた。「ターフェルシュピッツ」と書かれている。
その屋台に、一期生の高山一実と、卒業生の西野七瀬の姿があった。
「おっす、ずー」飛鳥は言った。「おいっす、なぁちゃん」
「おいっす」七瀬ははにかんで飛鳥に返した。
「あ、飛鳥、おっすー」一実は紙皿に乗った一見ステーキにも見える小さく切られた肉を見せた。「これ一口、食べてみて~」
「何? ステーキ?」飛鳥はその肉を見つめる。