BUDDY 3
壁にぴったり添っていた背面は変色し、黒っぽいシミが幾つもできていた。
「カビてたんだな」
ようやく呼吸が整ったらしい士郎は、箪笥の背面を見て呟いている。
「ああ、そのようだ」
「腐ってきてたのは、このせいか」
「湿気が溜まっていたのだろう。この重さでは動かすことも一苦労だ。加えて特段使っているワケでないのなら、仕方がない」
「うん……」
責められているとでも思ったのか、沈んだ相槌を打つ士郎は、箪笥の天板を所在なさげに撫でている。
「お前一人でどうこうなる代物ではなかったのだ、諦めろ。それよりもマスター、一度、土蔵の中をひっくり返して換気をした方が…………、ああ、それで、あの惨状、というわけか」
「え? あ、ちが…………、いや、はじめは違ったんだけど、結局、ああなって……。あ、あとは、俺でもできるからさ。ありがとな、アーチャー」
土蔵に戻ろうとする士郎の肩をアーチャーは掴む。
「ん? なに?」
「たわけ」
「は?」
「一人であれを片づけるなど、夜が明けてさらに日が暮れるぞ、未熟者」
「う……」
「はじめから私に声をかければいいだろう? 何を遠慮などしている。気色の悪い」
「う、き、気色悪いって……」
目を逸らした士郎にため息をこぼし、アーチャーは士郎を置いて歩き出す。
「え? アーチャー?」
「さっさと片づけるぞ! 本当に日が暮れる」
「あ、う……、あ、あり……、がと、な!」
少し駆けてアーチャーの隣に並んだ士郎は、頬を指先でかきながら、照れ臭そうに礼を言う。
「あの状態を放置する精神を持ち合わせていないだけだ」
「はは……、うん、そうだな」
笑っているというのに、その横顔は、どこか沈んでいるように見える。何か言い方を間違っただろうか、とアーチャーは首を捻るも、その正否などわからない。
「士郎」
「へ? あ、な、なんだ?」
びっくりしたような顔をこちらへ向けた士郎は、アーチャーの言葉を黙して待っている。アーチャーが導き、鍛錬をしていたからなのか、それが癖になってしまったように、士郎はアーチャーが話しはじめるのを待っていることが多い。
アーチャーを師として信頼し、立てている証なのだろうが、どうにもアーチャーの記憶にある衛宮士郎とは違っていて戸惑う。違和感とまではいかないまでも、しっくりこないような気がしてしまうのはどうしようもない。士郎のせいではないし、もちろんアーチャーが悪いわけでもない。ただ、そういう記憶があるために、どうしても先入観が拭えない。
「遠慮することなどない」
だからだろうか、アーチャーは、もう何度目かになるその言葉を、はっきりと口にする。
「遠慮なんか、してないけど?」
「十分にしている」
「…………じゃあ、百歩譲って、してるってことでいいけど」
「貴様……」
太々しく言う士郎に、なぜ、お前が譲ってやっていることになるのだとアーチャーは不穏な空気を醸し出す。
「いいか、私は、」
「俺を鍛えようって気持ちはうれしい。だけど、アンタには、やるべきことがあるんじゃないのか?」
「やるべきこと?」
「だって、アンタは守護者だろ? なのに、俺を鍛えるって、そんな道草くってていいのかって話だよ」
またその話を蒸し返すのか、とアーチャーは肩を竦めた。それは、聖杯戦争が終わった後に話し合い、互いに納得して今に至ったはずなのに、と。
「それは私が決めることだ。お前が気を揉む必要はない。私はお前を鍛えると決め、お前は私とは違う先行きを見せると約束した。それが今、私が現界する意味だ。守護者のことは棚上げにしていいと思うくらいにな。……とにかく、お前は妙な気の回し方はやめろ」
「そ、そんなこと、してな――」
「本当にしていないと、言えるか?」
アーチャーは足を止め、真っ直ぐに士郎を見据えた。やがて逸れていった琥珀色の瞳に、にやり、と口角を上げる。
「しているのだな」
「う……、カマかけたのかよ。ずるいぞ」
したり顔のアーチャーは、そんなことはしていないと鼻で笑う。
「とにかく、お前は当初のように、言いたいことを言って、私を使えばいい」
「そ、そういうわけには、い、いかないっていうか……」
少し不機嫌な顔をした士郎は、ブツブツと口内で何事かを呟いている。
「だから、遠慮など――」
「するだろ! 普通!」
急に声を荒げた士郎に、アーチャーは珍しく目を瞠った。
「俺を鍛えてくれるのは、ほんとにありがたいし、ここに居てくれるのも助かってる。だけど、こんなの……、アーチャーの本来やるべきことじゃないだろ? 聖杯戦争ですら満足に戦えなかった俺のお守りみたいなことをずっと続けさせているのに、これ以上、アンタの――」
「それが、要らぬことだと言っているのだ」
「なんでだよ! アンタには、ちゃんと還るべき場所があって、やるべきこともあって、なのに、」
「マスター、そこまでだ」
「は?」
片手を上げて士郎の口元を制したアーチャーに、士郎は吐き出しかけた息を飲み込む。
「このままでは、本当に片づけが終わらなくなる」
「ちょ、そ、そんなこと、あとで、」
「やりながらでも口論はできる」
「はあ?」
スタスタとアーチャーが土蔵に向かえば、士郎は追いかけてきた。
「てめえ! 逃げんな!」
「逃げてなどいない」
「はぐらかして、うやむやにしようたって、そうはいかないんだからな!」
土蔵に入るなり床に散らかった物の片づけをはじめたアーチャーに続き、士郎も片づけながら、アーチャーの今後についての話し合いが同時進行で行われることになった。半分は口喧嘩、いや、常にアーチャーが優勢で、士郎は何を言っても言い含められ、言い負かされ、言い聞かされている。
結局、アーチャーにはこの契約を解消する気がない、ということを士郎が納得するまで話し合いは続いた。もちろん、土蔵内の片づけもだ。
やがて、話し合いに決着がつき、片づけを終えて庭に出れば、とっぷりと日は暮れ、ドォン、ドォン、と腹に響く爆音が聞こえはじめる。
「あ……、花火大会、はじまったのか」
士郎が呟きながら夜空を見上げているが、熱気の籠もる暗い空には星が瞬いているだけだ。
「ここからじゃ、見えないよなぁ」
「そうだな」
「アンタは、見たことあるか? 観覧ポイントとか知ってたりとかは?」
「お前が知らないのならば、私が知るわけがない。そもそも、花火大会など、お前の年頃に行った記録はない」
「なんだよ、覚えてないのか?」
「覚えているとか、そういうことでは――」
「こっちだ、アーチャー」
「は? おい?」
士郎はアーチャーの腕を掴んで土蔵へ舞い戻っていく。
「なんだ、片づけは終わっただろうが」
「片づけじゃなくて、花火だって」
「私は花火など、」
「いいから、いいから」
士郎は土蔵の狭い階段をアーチャーの背を押しながら上がっていく。士郎に押されたからといって踏み止まれないわけではないが、アーチャーは士郎に押されるままに二階まで上がってきた。
二階にも、物が所狭しと置かれており、ここも前の片づけと並行して掃除もしていたために、きれいになっていた。
「ここから屋根に出られるんだ」
士郎は突き当たりの窓を開け、そこから外へ出ていく。