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舞え舞え桜、咲け咲け想い

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 すっかりべそをかいて、必死に炭治郎を引っ張りながら義勇は言うけど。ハッハッとせわしなく息を吐きながら、トンネルのなかをのぞき込んでくる大きな犬は、とっても怖いけど。
 炭治郎は、逃げようとは思わなかった。

 義勇は俺が守るんだ! だって、義勇が誰より大好きなんだもん!

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 あのときは、本当に怖かった。思い浮かぶ懐かしい記憶に、炭治郎はかすかに苦笑した。
 太ったおじさんがゼーハー苦しそうに駆けてきて、僕たち大丈夫か!?と、トンネルをのぞき込むまでは奮い立たせていられた勇気も、大人の姿を見たとたんにがくんと目減りする。安心した途端に思わずへたり込んでしまったくらいには、本当に、本当に、怖かった。
 人食い狼かもと震えあがるぐらい大きくて怖かった犬は、リードに繋がれておじさんに甘えているのをよくよく見れば、炭治郎と義勇にもずっと尻尾をブンブン振っている。狼どころか、噛みつきそうな気配なんてまったくなかった。
 顔が怖いから子どもには泣かれちゃうんだけど、こいつは子どもが大好きなんだよ。おじさんがペコペコ頭を下げながら言う横で、犬はまるで「遊ぼ?」と言ってるみたいな顔をして、炭治郎たちを見ていたものだ。
 名前は太郎丸号。大きな大きな土佐犬の太郎丸は、性格がやさしすぎて闘犬には向かなかったのだという。おじさんが小屋の鍵をかけ忘れたものだから、散歩気分で逃げ出してしまったらしい。
 話を聞いてしまえば、大きくて怖い顔の太郎丸も、炭治郎が好きな犬であるのに違いはなく。ときどき遊びに行かせてもらうぐらい、炭治郎と太郎丸は仲良しになった。
 すっかり犬が苦手になってしまった義勇に申し訳ないので、会いに行くのは義勇と遊べない日だけ。義勇がいない寂しさで、しょんぼりとした顔で太郎丸に抱きついた炭治郎は、太郎丸にぺろぺろと顔じゅうなめられてるうちに、いつだって笑顔になったものだった。
 たとえば今日のような日に、以前だったら真っ先に炭治郎が向かうのは、太郎丸のところだったのだ。
 義勇にも、家族にも、心配させちゃうから言えない。悲しさや寂しさを抱えたときに、炭治郎が「あのね」と心のうちを口にするのは、大きくて怖い顔した、やさしい太郎丸。

 だけど、そんな太郎丸も、もういない。何年か前の、こんなふうに桜が舞う春の日に、静かに息を引き取ったから。


 おじさんちの庭の片隅に作られた、太郎丸のお墓の前にしゃがみ込み、わんわんと炭治郎は大きな声で泣いた。その隣で、義勇も泣きだしそうな顔をしていたけれど、それでも涙を落とすことなくずっと炭治郎の手をにぎっていてくれた。
 犬が苦手な義勇は、原因になった太郎丸とほとんど遊んだことはない。だけども義勇は、太郎丸が病気になったと聞いて以来、毎日会いに行く炭治郎に嫌な顔一つせず付き合ってくれた。
 おじさんが、こんなにかわいがってもらって太郎丸は果報者だなぁと泣き笑う横で、炭治郎の悲しみに寄り添って、炭治郎が泣きやむまでずっと一緒にいてくれたのだ。
 そう、初めて太郎丸と出逢ったその日に、約束したように。

『俺、強くなる。たんじろうを守ってあげられるぐらい、ぜったいに強くなるからね。たんじろうが泣かないように、俺が守ってあげるから。おっきな犬にも、いじめっ子にも、絶対に負けないようになるから。だから、ずっと、ずっと、いちばん仲良しでいてね。ずっと一緒にいてね』

 約束の言葉が耳によみがえる。おじさんと太郎丸が帰っていっても、まだ涙が止まらなかった義勇の声は、しゃくりあげて不明瞭だった。
 だいじょぶだよ。もうこわくないよ。言いながら、義勇の頭をなでつづけたのは、再びもぐりこんだゾウさんのお腹のなか。泣いているところを見られるのは、きっと義勇も嫌だろうと思ったから。
 義勇が約束してくれたのは、そのときだ。
 ポロポロと零れる涙はそのままに、義勇は小さな手で炭治郎の手をぎゅっと握りしめて、強くなると誓ってくれたっけ。もう泣かない。これからは強くなる。約束してくれた義勇の目は、涙で濡れていたけれど、真剣そのものだったのを覚えている。
 そのときの義勇の濡れて光る群青色の瞳に、なぜだか胸がドキドキとした理由を炭治郎が理解したのは、ずいぶんと後になってからだ。
 どちらかといえば甘えん坊だった義勇は、あれ以来本当に泣かなくなった。遊び気分だった剣道にも真剣に打ち込んで、どんどん強くなっていく。誰からも褒め称えられるぐらいに。

 泣き虫で甘えん坊だった義勇は、もういない。炭治郎、と呼びかける声や瞳のやさしさはそのままに、義勇はいつしか、強くて逞しくてかしこい、誰の目にも非の打ちどころのない男の子になったのだ。

 いや、もう男の子だなんて言えないだろう。高校三年生になった今では、義勇の背は優に炭治郎の背を追い越して、大人の男の人と遜色ないのだから。
 まだまだ子どもっぽさが残る炭治郎と違って、義勇はもう大人の入り口に立っている。穏やかで物静かな佇まいも相まって、同級生のなかでは飛びぬけて大人びて見えた。
 綺麗な年上の女の人と並んでも、まったく見劣りしないどころか、お似合いだと誰の目にも映るぐらいに、義勇は一人で大人になっていく。炭治郎を置き去りにして。
 炭治郎の胸に育った、小さな恋心になど、気がつかないまま。
 

『もういいよ。俺といるよりも、義勇だってあの人と一緒にいるほうが楽しいんじゃないの? みんなだってお似合いだって言ってたし、俺もそう思うな。それに、高校を卒業したらどうせ離ればなれじゃないか。そろそろ俺たち、一緒にいるのやめたほうがいいよ』

 そんな言葉が自分の口から出るのが不思議だった。義勇の目を見返すことができず、そむけた自分の顔は笑っていたけれど、きっとすごく嫌な笑い方をしていたに違いない。
 思った瞬間、これまで以上にぶわりと悲しみがわき上がって、膝に顔をうずめたまま炭治郎はギュッと目を閉じた。

「炭治郎っ!」

 聞こえた声は、幻だろうか。だって、義勇がここにくるはずがない。
「やっぱり、ここだった」
 声は少し息切れしている。走り回ったんだろうか。炭治郎を探して? ありえないのに、なんて都合のいい幻聴だろう。
「太郎丸のとこも行ったけど、いなかったから……見つかってよかった」
 やさしい声。だから、これは炭治郎の願望が生み出した幻聴に決まっている。あんな嫌な態度をとった自分に、きっと義勇はあきれたはずだ。義勇の言葉を聞こうともせずに、嫌味な台詞を投げつけて逃げ出した。そんな炭治郎を、義勇だってきっと、もういいと見限ったに違いない。
 それなのに。
「……さすがに狭いな」
 声はさっきより近づいて、ポンッと頭に置かれたのはきっと、炭治郎よりも大きくなった手のひら。
「顔、あげてくれ」
 懇願するひびきに、炭治郎は小さく首を振った。幻聴じゃないのなら、余計に顔を上げられるわけがない。だって絶対に今の自分は嫌な顔をしている。嫉妬して、ふてくされて、身勝手な言葉をぶつけた。今もまだ、胸のなかはざわざわと嫌な感情がうごめいているのだ。誰の目にもみっともない顔をしているに違いなかった。そんな顔、これ以上義勇に見せたくはない。