彼方から 幕間5 ~ エンナマルナへ ~
『毒』を食らい、背を切られたはずの女が、何事もなかったかのように平然と立つ、その姿が……
徐に剣を構え直し、
「――女……」
微かに震える声音で、
「一体――何の能力者だ……」
カイダールはそう問い、睨み、見据えてくる。
『気』を読まなくても分かる。
『恐れている』ことが――
本能では既に、『勝てない』と悟っていることが……
だが、過去の栄光に依る自尊心が、それを認めないのだろう。
体が感じている『怖気』を、捻じ伏せるかのように口を開いている。
それを『滑稽』だと……
思えるだけの感情が残っていることが、不思議に思える。
「……あなたに教える必要性を、感じないの――だけれど……?」
抑揚のない声音を返しながら、右手に氷の剣を作り上げる。
カイダールを見据えたまま、腰に携えた『剣』にも、左手を伸ばしてゆく。
何処か……
『無情』に完全に満たされることのない、己の心の在りようを他人事のように感じながら、カイダールへと静かに、その歩を進めていた。
***
「くそ、が……」
二振りの剣を手に、無感情な瞳で歩み寄る女の様に、あの男の姿が重なる。
あれから――『あの日』から……
一度たりとも忘れたことのない、屈辱の記憶。
鮮明に脳裏に蘇る『御前試合』の映像が、蟀谷に血管を浮き立たせる。
ギリギリと辺りに響くほどの歯軋りを鳴らし、カイダールは怒りに満ちた声音でそう、吐き捨てていた。
じわじわと、黒い霞が寄り集まる気配が分かる。
憎しみ、怒り、苛立ち、妬み、嫉み……
そんな感情が沸き上がる度に、黒い霞が体の内に入り込み、『力』を与えてくれる。
己の望みを、欲するものを、手に入れる為の『力』を……
体に満ち溢れる『力』に、笑みが浮かぶ。
本能からの警告ともいうべき『怖れ』は、自覚する前に何処かへと消え去った。
保証のない『力』に後押しされた自信を頼りに、カイダールはエイジュに向けて、剣を振り上げていた。
*************
砂に足を取られ、必要以上に体力が奪われる……
月明かりの中、辛うじて浮かぶ二人の影を追い、アゴルは息を弾ませていた。
正直――
自分が行ったところで、彼女の足手纏いにしかならないのは分かっている。
それでも、娘ジーナや左大公たちと一緒に、馬車でエンナマルナへ向かう気にはなれなかった。
…………たとえそれが、皆で話し合い、決めた事だったとしても――
「――――っ!」
中空に浮かんでいた二人の影が……
カイダールとエイジュの影が、地上へと降りてくるのが見える。
小高い砂山の向こうへと、その姿が消えてゆく。
「くそっ!」
行く手を阻むかのように聳える砂山に、思わず、悪態を吐く。
まるで、親の仇でも見るかのように頂上を見据えると、流れ落ち、踏ん張りの効かない砂の山肌に両手両足を突っ込み、必死に、登り始める。
腕も足も……怠く、重い――
息が上がり、思考が鈍る。
重い体と頭を持ち上げ見上げれば、遥か先に在るように思える山頂の先に、見慣れた星空が広がっている……
――エイジュ……
『誰か』を喪うかもしれない……
何度も眠りを妨げた『悪夢』が、不意に、脳裏を過る。
思い出したくもない夢が、現実になりそうな気がして……
ただ無心に、重い手足を動かし続けた。
それでも、沸き上がる感情を、抑え切ることなど出来ない――
―― 怖い ――
明確に、自身がそれを感じていると思えるのは、初めてだった。
心の奥底で、常に感じ続けている『負の可能性』が、のそのそと頭を擡げてくる。
払拭し切れぬその不安が、『悪夢』という形で現れたのだろうか……
『喪う』ことは、初めてではない。
その『哀しみ』も『苦しみ』も『痛み』も……嫌というほど味わっている。
だからこそ、余計に感じてしまうのだろうか――
『喪う』かもしれぬ『恐怖』を……
無意識に身を震わせてしまうほどの、『怖さ』を……
――ジーナ……
無理に、他のことへと意識を向ける。
そうでもしなければ、『震え』て、身動きが取れなくなりそうな気がしたからだ。
あの夜……
ゼーナの占いを聞いてから、いつもと様子が違うことには気付いていた。
頻りと、エイジュを気にしていることも――
何を気に病んでいるのか、それなりの推察は出来た。
問い質しても良かったのかもしれないが……
なるべくならジーナの『意思』を、尊重してやりたかった。
自分から話し出すまで、待っていてやりたかった。
『父親』としてのその『判断』が、今は、『甘かった』と思う。
だからこそ、余計に強く思うのだ。
――約束は、守る
必ず――
エイジュを連れて、戻る……と――
*************
「うぉおぉおっ――!」
カイダールの雄叫びのような怒声が、甲高い金属音と共にドニヤの荒れ地に響く。
力任せに振り降ろされる剣を、エイジュは表情一つ変えずに、双剣で弾き返していた。
「くそがっ!!」
弾き返された剣の勢いを借り、身を翻し、薙ぎ払う。
一閃――
薙いだ刃に払われたのは、揺らめく、残像……
視界の端に捉えた実像に気付き、カイダールは反射的に後ろへと、飛び退っていた。
――ヒュオッ……
瞬間……
空を裂く音が耳朶を捕らえる。
寸刻前まで己の身が在った地面が、美しい弧を描き、深く、抉れてゆく……
「くっ……」
地を這うように低く、鋭く放たれた蹴りが残した軌跡に、額から一筋の汗が流れ落ちる。
掠ってすらいないはずなのに、脚に、違和を感じてしまう。
抉られた土が吹く風に煽られ、舞い上がってゆく。
「ちっ……」
まるで煙幕のように、濛々と巻き上がる土煙に包まれ、視界が遮られる。
動きを止めざるを得なくなる…………
……不意に、気付く。
――気配が
――消えた……
ゆるゆると蠢く土煙に溶け込んだかのごとく、女の気配が、消えていた――
刹那――――
「――ッ!!」
『殺気』を感じ、咄嗟に脇へと飛ぶ。
受け身を取り、転がる視界に辛うじて映ったのは、立ち込める土煙を切り裂き現れ煌めく、細身の剣……
解けた黒髪を振り乱し、感情のない瞳でこちらを見据える――女だった。
「――舐めやがって……」
態勢を整え、立ち上がる。
風に吹き流されてゆく土煙の中に凛と立ち、息一つ乱さず、表情一つ変えることなく……
暗い瞳を向けてくる女を睨み付ける。
風に弄ばれる髪が、血色に染まった服が示している。
確かにこの手にした剣で、眼の前に立つこの女の背に、一太刀浴びせたことを――
切られた髪が風に流れてゆくのを、血飛沫が舞い、服が真紅に染まる様を、確かにこの眼で見たというのに、解せなかった。
あれほどの傷を負った女が、自分と同等に動けていることが……
……いや――そんなことよりも……
確かに『毒』を食らったはずの人間が、何故、眼前にいるのか――――
それこそが解せなかった。
「……くそが――」
作品名:彼方から 幕間5 ~ エンナマルナへ ~ 作家名:自分らしく