彼方から 幕間5 ~ エンナマルナへ ~
体の中から逃げるように、抜けてゆくのが分かる。
――息が止まる。
視界が、狭まる――だが、激烈な痛苦に意識を失うことすらできない。
必死に空気を吸い込み、臓物を守るように体を折り曲げ、後退る――
喉元を競り上がってくるような吐き気を、辛うじて堪える。
辛痛に、額に脂汗が浮かぶ――視野が涙で滲む。
滲む視界に、もう一度身構える女の様が……
……女が、次の攻撃に移ろうとしている様が、映る――
―― もう一度蹴りが来る ――
頭では分かっているのに、体はもう、反応すらしない。
バリアを張ることも、腕で防御することも出来ず――
十分に体重の乗った強烈な蹴りが、無防備な脇腹に食い込むのを感じていた。
「ぐぅあっ……」
骨の折れる音が、頭に響く。
体が浮き上がる。
焦点がぼやける、眩暈がする……霞む瞳が、無表情で見据えてくる女を映す――
中空に漂い、虚ろな『眼』を持つ黒い霞をも、映し込む……
――何故だ……
『応え』を求めて己に問う。
――この『力』さえあれば
――何でも出来るはずじゃ、なかったのか……?
不思議と……
思考が鈍くなった頭に、『御前試合』の様が蘇る。
十人以上もの屈強な近衛を相手に、たった一人で、まるで遊んでいるかのように立ち回った、あの男の姿が……
いつの間にかあの男に与し、処刑されるはずだった左大公たち共々、城からいなくなったバラゴの顔が――
あの日、新たに闘士として召し上げられた、アゴルとか言った元傭兵の顔が、思い浮かぶ。
『二度も同じ手にひっかかるか』
そう言って、不敵な笑みを浮かべたイザークの顔が、今も脳裏に焼き付いている。
同じ能力者のくせに『風』を使えることを隠し、最後の最後に、これ見よがしに――『風』を操って見せたあの男の顔が…………
砂地に、叩き付けられるように落ちた。
体中の骨が軋み、悲鳴を上げる音がする。
『足音』が――
砂を踏み、近寄る足音がする。
だが、もう――指一本、動かす力も残っていない。
『足音』が止まる。
女が、光のない無感情な瞳で見下ろしている……
……口惜しい。
何も――望みを何も叶えられぬまま、死ぬのか…………
「くそ……がっ――」
鼻先に据えられた、細身の剣――
鈍く光るその剣先を見据え、カイダールはありきたりな罵りの言葉を、吐き捨てるだけだった。
*************
肺が、痛む……
吐くばかりで、息が上手く吸えない。
もう直ぐ、砂丘の頂上に手が届く。
ここを越えれば、エイジュとカイダールの姿が見えるはずだ。
急がなければいけない……
何故か、そう思えてならない。
急く心とは裏腹に、手足は思うほど速くは動いてくれない。
――どうして
――こんなことに……
自責と自問の念ばかりが、脳裏に渦巻く。
ほんの数時前のことが……
過ぎてしまったことばかりが、頭にチラつく。
彼女の言った通り、奴らは『翼竜』に乗ってやって来た。
おれたちの進む先を遮るように、翼竜を降り立たせた。
何もかも――
エイジュの予測通りに、『事』は運んでいたはずだった……のに――
――おれは……
――大馬鹿者だっ!
隊の長としても、父親としても、なんと中途半端なことか!
……だが、まだ間に合う。
ガーヤやバラゴたちは今、己の役割を全うしてくれている。
おれも、自分の責務を全うする。
父親として、隊の長として――
「………………いた」
延々と続くかに思われた砂丘……
その頂上に手が届いた。
疲れ切った腕と脚で無理矢理持ち上げ、体を向こう側へと転がり落とす。
這い蹲るようにして見上げた先に、二人の姿が……
エイジュに蹴り飛ばされ、土埃を巻き上げ荒れ地を転がってゆくカイダールの姿が、見えた。
動かなくなったカイダールに、彼女がゆっくりと歩み寄ってゆく。
一歩踏み出す度に、左手に持った細身の剣が月光を弾き、煌めく……
なんとか、息を整える。
激しく脈打つ胸に手を宛がいながら、少し、力の戻ってきた脚で、立ち上がる。
「やめろ……エイジュ――」
距離がある、風も吹いている、声など届かないと分かっている。
分かっていても、そう、呟き続けた。
『やめてくれ』
と…………
脚を、踏み出す。
苦しくてならない、このまま、地面に倒れ込んでしまいたい程に。
「エイジュ……やめろ――殺すな……」
彼女の耳に届く程の大声など出せないのに、言葉が止まらない。
「駄目だ……今のあんたじゃ、駄目なんだ」
『どうして』と問われても、おそらく説明することなど出来ない。
そう思うのは、ただの『直感』に過ぎないのだから……
だが、確信している。
彼女の瞳が、確かに闇色を帯びていたことを。
『いつもの』エイジュではなかったことを……
―― だからこそ、あたしが、来たのよ ――
彼女の台詞が、幾度も頭を過る。
あの時のイザークの姿を……
グゼナの国、ゼーナの屋敷で、襲撃を掛けてきたワーザロッテの親衛隊にノリコを奪われた、『あの時』のイザークの様を――何故だか、今の彼女に重ねてしまう。
彼女がどんな想いを抱え、どんな覚悟で『護衛』として来てくれたのか……一度も考えていなかったことに気付く。
心の何処かで彼女の『強さ』に甘え、勝手に漠然と、『大丈夫だ』と……そう思っていた。
それは……皆に対しても娘に対しても――同じだ。
いつもと少し様子が違っていても、かなり厳しい状況に置かれていても、『一緒』なら大丈夫だと……
何の根拠も確証もないのに、ただ『漠然』と――――
ジーナが『邪気』の影響を受けてしまったのも、エイジュがいつもの様を失ってしまいつつあるのも、全て……
己の甘い考えの成せる業のような気がしてならない。
だが…………
それでも――――!
気が急く……
重い脚を、必死に動かす。
倒れたままのカイダールに、剣を突き付けるエイジュの姿に、奥歯を噛み締める。
「やめろっ!! エイジュッ!!!」
思い切り息を吸い、叫んだ。
何度も唾を飲み込み、痛む喉を無理に潤し……
アゴルはエイジュへと――
覚束ない脚を動かし続けていた。
*************
「……っ――」
体が僅かに反応する。
剣を突き付けたまま、動きが止まる。
……誰かに名を呼ばれたような――
そんな気がして、エイジュは闇色に染まる瞳を、何処へともなく、向けた。
夜闇の中……
近づいて来る人影が、視界に入る。
「――どうして……?」
困惑の問い掛けが、
「アゴル……」
彼の者の名が、口を衝いて出てくる……
どこか片隅へと押しやられていた『感情』が、少しずつ、戻って来る。
「……あたしは――」
彼の姿から、眼が離せない。
「――早くエンナマルナへと……」
疲れ切った様子で、重い足取りで、
「そう――言ったはずよ……」
息遣いも荒く、大きく肩を揺らし、
「……どうして――」
作品名:彼方から 幕間5 ~ エンナマルナへ ~ 作家名:自分らしく