彼方から 幕間5 ~ エンナマルナへ ~
バーナダムが占者の館で見た光景を話してくれた。
その話の中で出てきた、館の上空に集まっていたという『黒い靄』と、様相がよく似ている……
『聖地』が近いから『邪気』の影響は受けない――などということは、恐らくないと考えた方がいい。
アレは……何かを『望み欲する想い』に強く反応し、そういう想いを持つ人間に、強く影響を与えるのだから――
見えないはずの瞳で一体何を『見て』、そして、どこへ向かおうとしているのか……
覚束ない足取りなのに、転ぶこともなく砂に足を取られることもなく――ジーナは『何処か』を目指し歩いてゆく。
「ジィーーナァ――ッ!!!」
声の限りに名を呼ぶ。
ほんの少し、反応を示したように見える。
僅かだが、歩く速度が緩んだように思える……
―― はーっはっはっはっ…… ――
男の高笑いが、どこからか聴こえる。
恐らく、襲撃者の誰かの声……
今、たった一人で歩いている娘、ジーナは――
奴らにとって格好の獲物。
緩く波打つ柔らかな髪に……
フラフラと揺れ動く小さな背に、もう少しで手が届く。
砂地を蹴る音が、耳朶を掴む。
必死にジーナの背に手を伸ばした視界の端に――
残忍な……勝ち誇ったような笑みを浮かべた、見覚えのある男の姿が……
今にも、娘に振り下ろされようとしている刃の煌めきが、映る――――
―― ……ジーナッ……!! ――
声にならない叫びが、胸に渦巻き頭の中に木霊する。
亡き妻の面影が…………
涙に濡れた相貌が、刹那――脳裏を過る。
辛うじて指先に掛った娘の服を掴み、力任せに引き寄せる。
……避ける間などない。
男が振り上げた剣は、もう、直ぐそこに見えている。
されるがまま……
抱き寄せられるがまま、虚ろな表情を見せる娘を――
アゴルはその胸にしっかりと抱き護り、背を向け……予期される痛み耐えるように、砂の大地に膝を着いていた…………
…………音を失った静寂が――――
永遠を思わせるほどに、場に……満ちてゆく――
「――――――っ…………!!」
高く、か細い……悲鳴のような吐息が――
痛みを堪える震える息遣いが、アゴルの耳朶を掴む。
無自覚のまま、条件反射のように、小さな手で胸の辺りを掴むジーナを抱きかかえ、アゴルは半身を捩るようにして、背後に眼を向けていた。
仄かに青く……
冴えた月の光が、天上から降り注いでいる――
流れる風が月光に煌めく黒髪を、吹き散らしてゆく……
否応もなく瞳に映る光景に、アゴルは眼を大きく見開くことしか出来ない。
弓なりに反らせた体躯から、深紅の飛沫が迸る。
剣の軌跡を擦るように、舞い散ってゆく……
解けた黒髪が風に乱され、彼女の面貌を覆い隠す。
服を染め、右の指先から滴り落ちる、鮮血――
痛みを堪えるように左手を肩に添える彼女の膝が、力無く、崩れ始める。
「よかっ――た……間に、合って――」
血の気を失った、『いつもの』微笑み……
その笑みの向こうに、驚きと困惑に満ちたカイダールの顔が、見える――
「エイ……ジュ――」
口が乾く。
言葉が上手く継げない。
眠りを何度も妨げた『夢』が……
『悪夢』が、今更のように脳裏を過ってゆく。
砂地へと傾く彼女から、眼が離せない。
いつの間に、どうやって……
その身を『盾』と、してくれたのか――
『今』、気にする必要などないことばかりが頭に浮かび、『思考』が働かない……
「――――っ!」
ビクリと……ジーナの体が大きく震える。
その震えを切っ掛けに、意識が働きだす。
胸の辺りを掴む娘の手に、力が籠ってゆくのが分かる。
「……あ――あ、あぁ……うぅ……」
言葉にならない『感情』が、薄く開いた唇から漏れ聞こえてくる。
『邪気』の影響から、逃れられたのか……?
『自我』が、戻ってきたのだろうか……
「はっ……く、くくっ――」
カイダールから、驚きと困惑に満ちていた表情が消えてゆく。
「どうやって毒を抜いたのかは知らねぇが、馬鹿な女だ……」
代わりに、蔑みの籠った声音で……
「こんな奴らなど放っておいて、自分だけ逃げていれば――」
見下した笑みを浮かべ……
「――死なずに済んだものを……」
もう一度、剣を振り上げていた。
***
「早く……………………――」
囁きのような彼女の声に、一瞬、体が反応する。
覗き込むようにして合わせた彼女の瞳が、暗い影の中で光る……
掠れ、聞き取ることの出来なかったはずの言葉が、何故だか鮮明に、頭の中に響いている。
『早く、エンナマルナへ――』
と…………
彼女の動きが止まる。
崩れかけたまま留まり、肩越しに向けられた双眸が、背後のカイダールを捉えている……
右手から全身へと、広がってゆく仄青い光。
踵を返す彼女の瞳が、暗く、濃く――闇色を帯びていくように見えた。
地を蹴る足音。
動きを捉えた時にはもう、エイジュの右手はカイダールの胸座を掴んでいた。
手負いとは思えぬ反撃の速さに……瞳を丸くする奴の顔が、やけに良く見える。
…………そのまま――
カイダールと共に中空に舞う、彼女の姿を瞳に映しながら、アゴルは強く娘ジーナの体を抱き締め、彼女の名を叫んでいた。
***
「エイジューーッ!!」
彼女の名を呼び叫ぶ父の声に、胸が痛む。
彼女の『気』が、離れてゆくのが分かる。
『気』の在りようが、その大きさが、これまで感じたことのない大きさに……『気配』に変わるのが……
護り、抱き寄せてくれる父の服を強く掴む。
守り石を握り締める手が、小刻みに震える。
――あたしの……
――あたしのせいで……
脳裏に結ばれた映像に震える。
瞼をきつく閉じようとも……父の胸に顔を埋めようとも――震えが、全身を捉えて止まない……
引き結んだ唇が震える。
「……ごめんなさい――ごめんなさい、ごめんな……さい……」
幾度も、幾度も――
謝りの言葉を口の中で繰り返す度に……頬を涙が伝ってゆく。
――……どうして――
自分でしたことを、自分に問う。
心も体も、苦しくて熱い。
頭の中に響く自分を責める声……
その『声』を掻き消すかのように、ジーナは父の胸に顔を埋めたまま、声を……上げていた。
*************
「ジーナッ! アゴルッ!!」
ガラガラと鳴る車輪の音と、馬の嘶き……
そして、名を呼ぶ声が響く。
響いた先に眼を向ければ、左大公が手綱を取る馬車が――
幌幕を開け、荷台から身を乗り出すようにしている、ゼーナの姿が瞳に映る。
「大丈夫かいっ!? 怪我はっ!?」
眉間に皺を寄せ、矢継ぎ早に問うてくるゼーナ……
手綱を友に預け、焦りを滲ませた表情で、ジェイダも御者台から降りてくる。
あれだけ落ち着きを失っていた馬が、『もう用は済んだ』と言わんばかりに、今はもう、大人しく御されている……
まるで、『何か』の悪意ある意思が、働いていたとしか思えないほどに――
作品名:彼方から 幕間5 ~ エンナマルナへ ~ 作家名:自分らしく