午後4時のパンオショコラ
錆兎を好きな気持ちは、どれだけ炭治郎が気に掛かろうと目減りすることはなかった。二人を同時に好きになれるほど、自分は器用じゃない。もしも錆兎への想いを諦める日がくることになったとしても、だからといって炭治郎に心変わりするのは嫌だった。
炭治郎は錆兎の代わりなんかじゃない。錆兎が駄目だから炭治郎となんて、そんな代替品のような扱いをしていい子供ではないのだ。
「このところいい天気だったが、明日は雨かもしれないな」
口元から頬にかけて走る傷跡を、かりかりと指先で掻いて錆兎は言う。湿度が高くなると痒いとよく言っているから、錆兎が言うならきっと明日は雨なのだろう。
「そうか」
傷跡を見つめる義勇の視線に、かすかな罪悪感が滲むのを感じ取ったのだろう。錆兎は呆れたように苦笑した。
「義勇?」
「……わかってる」
おまえのせいじゃない、気にするな。何度言われても、何年この遣り取りを続けても、義勇の心から罪悪感が消えることはない。
けれど、それは錆兎が思うように、錆兎の顔に残った傷跡のことばかりではないからこその、罪悪感だ。
錆兎には決して悟られてはいけない、義勇の浅ましさゆえの罪悪感。その傷こそが、義勇に恋心を自覚させたのだなどと、錆兎は一生知らなくていい。
『お母さんにプレゼントしたいの』
そう真菰が言ったのは小学五年の夏休み。
名前は知らない。けれどとてもきれいな花だったからと、真菰はニコニコと笑っていた。
泊りがけで遊びに行った鱗滝の親類の家で、縁側でスイカをご馳走になりながら話していたときのことだった。
前日に、裏山を三人で探検した折に見つけた池に咲いていた真っ白な花を、母親の誕生日にプレゼントしたいのだと、真菰は言う。錆兎も義勇も、もちろん快く了承した。
仕事が忙しいなか、よく道場におやつを差し入れてくれる真菰の母の誕生日なら、二人だってお祝いしたい。池に咲く花を摘み取るのは苦労しそうだが、苦労したほうが祝う気持ちも伝わるだろうと思った。
今から行けば夕方までには戻れるだろう。軽い気持ちで出かけたものの、池は存外深そうだった。けれど、大輪の白い花はやはりきれいで、目にしてしまえば諦めるのは悔しかった。
畔に生えていた木の枝を錆兎が掴み、錆兎の手を義勇が握って池に身を乗り出すことにしたのは、単純に体重の差だ。
真菰は危ないからやめておけと錆兎が言うのにも、義勇だって納得していた。万が一池に落ちでもしたらいけないし、かといって錆兎や義勇の身体を支える力は真菰にはない。
精一杯手を伸ばしても、どうしても届かなくて。もういいよと真菰が言うのに、少し意地になった。錆兎までもうやめようと言い出すから、ますます引けなくなって。もうちょっとと身を乗り出した途端に、ずるりと足が滑ってバランスを崩した。
池に落ちる瞬間に義勇が見たのは、ともに池に落ちた錆兎の頬が、折れた枝に切り裂かれる様。それでも義勇の手だけは放さずに、必死に義勇を引き寄せようとしてくれた錆兎の顔が近づいて。
散った鮮血に刹那頭に浮かんだ言葉は、きれい、だった。
あの日、目に焼き付いた真っ白な花と錆兎の鮮血は、今もまざまざと思い出せる。
「仕事のほうはどうなんだ? 行きつけの店がなくなってから、結局ヘルプ要請なかっただろ」
「クリスマスあたりに新刊が出る」
「そうか、順調ならいい。けど、なにかあったら言えよ? 時間作るから」
「真菰は?」
いつも通りかすかなからかいを含めた声で聞いた瞬間に、不意に錆兎の空気が変わった。手に取ったコーヒーカップをそのまま下ろして、錆兎は居住まいを正し義勇を見つめてくる。真剣な表情には、わずかばかりの緊張があった。
「錆兎?」
「結婚することになった」
そのときがきたら、きっと失恋したあの日のように、傷つくと思っていた。
ドクン、と大きく鼓動が跳ねて、瞬間息が止まったのは想像通りだ。けれど。
「いつ?」
「クリスマスイブ」
「……今年のか?」
それはさすがに早すぎないかと言外に込めた問いに、錆兎は少し目をうつむかせた。
「爺さんがな、来年の春は越せないらしい」
義勇はヒュッと息を吸い込み、目を見開いた。鱗滝の具合が悪いのは知っていたが、それでも早すぎると思った。
呆然とする義勇にほのかに笑って、錆兎は言葉を紡ぐ。
「外出許可がおりるうちに安心させてやりたい。できれば曽孫の顔も見せてやりたいが、こればかりはな。二人で相談して、昨日、真菰の家に行って挨拶してきた。まだ学生だから、反対されるかと思ったんだが」
「……大喜びだった?」
当たりだと言うように苦笑しながら肩をすくめるその姿が、いつもより大人びていた。
「小母さんも小父さんも、錆兎が大好きだから……」
以前なら、からかい言う声が震えぬよう、自分を抑えることに躍起になっただろう。心に滴る穢れに飲み込まれそうになり、叫びだしたくなっただろう。
なのに、とうとうこの日がきたというのに、義勇の心は凪いでいた。
諦めとも違う不思議な感慨が胸にある。
鱗滝を失っても、錆兎は幸せになれる。真菰と一緒に温かな家庭を築いていける。それが嬉しい。きれいな想いが義勇を微笑ませる。
ずっと心の奥底で望んでいたのは、きっとこんな自分だったのだろう。錆兎が好きだという気持ちを欠片も消すことなく、それでも素直に祝福できる。そんな自分になりたかった。
ずっと、ずっと、好きでいるために。
「どこで?」
「気が早いな。昨日決まったばかりの話だぞ? まだ爺さんにも話してないんだ。細かいことはこれからだな」
「そうか……」
そうか。そうなのか。
なぜだか無性に泣きたくなって、義勇はすっかり冷めたコーヒーに口をつけた。飲み干すまでに涙が乾けばいい。カップで隠されている内に。
幸せだ。心の底から、そう思った。
脳裏に思い浮かんだ鮮血が、炭治郎の赤い瞳と重なって見えた。
作品名:午後4時のパンオショコラ 作家名:オバ/OBA