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午後4時のパンオショコラ

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 しのぶの言葉を聞いてから、気が付けば心を占めそうになる陰鬱な感情に、義勇は十一月も半ばになろうかという今日まで、すこぶる寝不足な日々を続けていた。今までは溝浚いと称する男漁りで吐きだしてきたそれも、その原因が炭治郎だと思うと躊躇いが生まれ、ただ悶々と眠れない夜を一人のベッドで過ごしている。
 竈門ベーカリーにも、当然のことながら行けずにいる。どんな顔をして行けばいいというのだ。感情が読めないと言われる義勇の顔だが、義勇自身が意図してのものではない。怒りや不機嫌さなどは割合表情に出やすいらしいし、万が一、炭治郎としのぶの妹が一緒にいるところなど見てしまったら、自分はいったいどんな顔をするのやら。想像するだけでもマズイ気がする。たとえ無表情を貫けたとしても、炭治郎は鼻が利く。寝た子を起こすような真似などできるものか。

 そうはいっても、義勇の仕事に最適な場所は今や竈門ベーカリーのほかになく、義勇は今月末に一本締め切りを抱えている。しのぶのところとは違う出版社からの依頼で書いた連作の短編が、意外なほど好評で文庫化が決定したのはいいのだが、巻末に収録される書下ろしを月末には書きあげなければならなかった。
 だからずっと家から一歩も出ることなく、茶の間でひたすらにパソコンと向かい合っているのだが、遅々とした進捗状況には、もはや頭を抱えるほかなかった。
 デビューから世話になっている産屋敷出版と違って、この連作が初めての仕事になった出版社なので、あまり融通が利かないのが厄介だ。担当編集者も物言いがネチネチとしつこくて、あまり義勇とは馬が合わない。締め切りを伸ばしてほしいなど言おうものなら、またぞろ嫌味を言われまくるだろう。だからと言って、嫌っているわけではないから、担当を変えてほしいとは思わないが。
 その連作は義勇にしては軽いタッチのほのぼのとしたもので、こんな鬱々とした気分のままではまったく筆が進まないだけでなく、内容も先方の依頼に沿うものになるとは思えない。そのうえ、あのカフェスペースの専用席に行けないとなれば、ほかの仕事にも影響は多大で、いい加減どうにかしなければベストセラーなどには縁のない義勇など、早晩干されるだろうことは想像に難くなかった。

 よしんば小説家を続けられなくなったとしても、食っていくには困らない。けれども小説家を辞めたなら、義勇はおそらく自分を見失うだろう。
 錆兎の幸せを願いながら、性欲が高まれば適当な男とセックスして、なにを生み出すわけでもなくただ息をして生きる。そんな生き方を受け入れることは、もうできそうにない。

 義勇の小説を待っていてくれる子供がいる。自分の恋と義勇の書く主人公の恋を重ね合わせ、勇気づけられていると感謝してくれる名前も知らないあの子を、裏切るようなことはしたくない。
 口下手な義勇が自分の言葉で誰かを勇気づけられることなど、小説でしか果たせないのは自認している。ほかの読者にも感謝しているけれど、義勇に書き続ける力をくれたあの子は特別だ。あの子に届けるためにも、プロとして書き続けたかった。

 しかたがない。いい加減覚悟を決めて店に行こう。義勇はパソコンを手にノロノロと立ち上がった。

 できれば炭治郎がいないといい。思う端から炭治郎の明るい笑顔が脳裏に浮かぶ。
 今までならば癒された炭治郎の笑みは、義勇を苦しませるだけだった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ドアベルの軽い音とともに聞こえてきた「いらっしゃいませ」という炭治郎の元気な声は、なぜか義勇の顔を見た瞬間に尻すぼみになった。
 いつもだったら義勇の姿を認めた途端に顔を輝かせるのに、今日は表情までもが戸惑いが露わで、すぐにうつむいてしまっている。
 九月以来不義理をしてきたからだろうか。それとも、もうしのぶの妹と交際を始め、義勇の顔を見るのはバツが悪いのか。
 思いついた理由は義勇を苛立たせ、つい眉間に皺が寄った。
 勝手な憶測でしかないことは自覚しているが、それでもそんな理由を思いついただけで、義勇の機嫌は一気に下降する。
 想像上の炭治郎の心変わりをなじりたくなって、義勇は小さく深呼吸した。
 自分のことなど諦めろと、炭治郎に詰め寄ったのはまだ記憶に新しいというのに、あまりにも身勝手な自分に反吐が出そうだ。

 苛ついたままお気に入りのパンオショコラを食べる気にもなれず、夕食代わりになりそうなパンをいくつかトレイに取る。とにかく今日中に脱稿の目途が立つぐらいには書き進めなければならない。長時間居座ることになりそうだと、ちらりといつもの席に視線を向ければ、あの観葉植物の鉢植えはまだ移動されることなくそこにあった。
 我知らず安堵して、義勇はレジカウンターに向かった。俯いたままの炭治郎は視線だけで義勇を窺い見たものの、表情は浮かないままだ。
「……ホットコーヒー」
「はい……」

 いったい俺がなにをした。どうして俺の顔を見ない。いつもみたいに笑わないのはなぜだ。

 問い詰める言葉ばかりが脳裏に浮かんでは消えるが、義勇の口からそれらが出ることはない。そこまで恥知らずになるつもりは義勇にだってなかった。
 炭治郎には炭治郎の生活があって、義勇中心に回っているわけではないのだ。そもそも足を遠のかせていたのは自分のほうだ。ただの客と店員だと、自分達の関係を位置づけ無言の強要を強いていたのも、ほかでもない自分自身なのだから、義勇に炭治郎を責める資格などない。

 これでいい、これが当然の関係だと自分に言い聞かせている内に、レジを打ち終えた炭治郎が金額を告げる。札と一緒に渡したポイントカードは、あと一つですべて埋まる。結局作ってしまったポイントカードも、もう五枚目だ。いつもなら、あと一つですねと嬉しげに笑う炭治郎は、今日は無言で釣りとともにそれを返してきた。
 またじわりと腹立ちが胸を焼いたが、どうにか堪えて義勇はトレイを手にいつもの席に着いた。

 パソコンを開きストーリーに没入しようとするが、うまくいかない。
 店内に溢れる温かみのあるざわめきは、いつもなら集中への導入剤のようなものなのに、今日はやけに耳につく。
 客の話し声一つひとつを拾っては、そこに炭治郎の名が出ないことに苛ついたり安堵したりを繰り返しているのに気づいたとき、義勇は思わず天を仰いだ。
 執筆のために来たというのに、気が付けば炭治郎の近況を常連たちの会話から探ろうとしている自分は、いったいなんなのだ。なにを考えている。

 どうしてこんなにも炭治郎のことばかり考えてしまうのか。その答えをおそらく義勇は知っている。
 だが、それを認められるかと言えば、否としか言えない。義勇にとって恋愛感情とは、錆兎だけに集約されるもので、誰かに代替わりさせられるようなものではないのだ。
 たしかに、錆兎への想いから恋の一文字は昇華されたのだろう。今はただ深い愛だけが錆兎に対してはあるのだと思う。友情より重く、恋情ほど生々しくはない、深い深い愛情だ。
 では義勇の胸にあった恋はどこに行ったのか。義勇はそれに気づきたくはない。気づこうとも、認めたくはない。