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午後4時のパンオショコラ

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 深い溜息を吐いて、義勇は開いていたワードを保存した。この席ですら集中できず、遅々として進まないのなら、もうどこで仕事しようが同じことだろう。炭治郎のことばかり気になってしまうぶん、ここにいるほうがかえって仕事にならない。
 食事だけ済ませて帰るかと、置きっぱなしになっていた皿に手を伸ばしたとき、ドアベルがけたたましい音を立てた。

「権八郎、来てやったぞ!」
「馬鹿っ、デカい声出すなよ伊之助! 迷惑だろっ!」

 ワイワイと騒ぎながら店に入ってきたのは、数人の高校生たちだった。
 義勇がよく訪れる時間帯は学校帰りの高校生が立ち寄る時間と重なるので、それ自体はめずらしい光景ではないが、今日の奴らはいかんせんうるさい。思わず視線を向けると、観葉植物の葉の間から垣間見える一行のなかに、見慣れた顔があった。
「ごめんねぇ、禰豆子ちゃ~ん。お店で騒いだら迷惑だよね」
「うーん、ちょっと声のトーン落としてくれると嬉しいかな。あ、お兄ちゃん、ただいま」
 炭治郎に手を振る少女は、やはり炭治郎の妹の禰豆子だ。たまに炭治郎と一緒に手伝いをしているので、義勇も少しは馴染みがある。
「おかえり、禰豆子。伊之助たちもいらっしゃい。カナヲも一緒なんてめずらしいな!」
 義勇のいる席からでは姿は見えないが、炭治郎の声は明るい。義勇に向けた憂いや戸惑いなどまったく感じさせない元気な声だ。
 禰豆子と一緒に来たのは、炭治郎の友人なのだろうか。禰豆子はまだ中学生だと聞いたが、炭治郎たちが通う学校は中高一貫だというから、それなりに仲は良いのだろう。
「あ、あの、禰豆子ちゃんが一緒に行こうって……」
 緊張していることが義勇にも伝わる女の子の声に、炭治郎が優しい声でゆっくりしていくといいと返すのが聞こえた。瞬時に浮かんだのは、炭治郎に片想いしているというしのぶの妹のことだった。
 直感的に、この子だと思った。きっと今の声の主が、しのぶの妹だ。
 わずかに見える少女の姿は、葉の陰で顔が見えない。一行はそれぞれパンを選び出したようだ。おそらくはカフェスペースに来るのだろう。そう思った途端に義勇の鼓動は速まり、頭のなかで警告音が鳴りひびいた気がした。

 見たくない。炭治郎に恋する少女の顔なんて。

 そう思うのに、義勇の視線は動かなかった。
 重なり合う葉の隙間を凝視する自分の顔は、不機嫌そうだろうか。それとも、青ざめ頼りなげにでもなっているか。どちらでもなく、常の無表情であればいい。どちらの顔も炭治郎には見られたくない。
 義勇は無理矢理視線を逸らせた。目を伏せてうつむけば、自分がひどく惨めな気がした。

 会計を告げる炭治郎の声がする。離れた席を選んでくれと我知らず願った。きっと炭治郎は彼らの元に近づいていくだろう。そうして笑いかけるのだ。自分に恋する少女に優しく、労り深く、もしかしたら少女と同じ想いを乗せた瞳で。嬉しげに頬を紅潮させて義勇を見ていたその瞳で、きっと少女を見る。

「あの秘密基地みたいなとこにしようぜ!」
「え? あ、そこは駄目だ、伊之助!」
 大きな声に続いて聞こえた炭治郎の慌て声に、ゆるゆると義勇が視線を上げると、観葉植物の陰からひょいと見知らぬ顔が覗いた。
「ごめんなさいっ、冨岡さん! ほら、伊之助、あっちの席が空いてるからあそこに座れ!」
「ちっ、先客がいるんじゃしかたねぇな」
 慌てて飛んできた炭治郎が袖を引くのに、先の少年が不満そうに舌を鳴らした。
 ちらりと義勇に向けられた炭治郎の視線に、義勇は隠しようのない腹立たしさを覚えた。
 もう俺のことなど迷惑な常連客ぐらいにしか思っていないだろうに、おためごかしに気遣うような視線を向けるのはやめろと、吐き捨ててしまいたくなる。

 簡単に心変わりする奴だと思われたくないのか。今さらだろう。義勇の言葉に従っただけだと開き直ればいい。そうしたらきっと自分も、ドロドロと心に溜まるばかりの澱みから解放される。

 このままでは炭治郎を責める言葉ばかりが口をつきそうで、義勇はパソコンを閉じると、まだろくに食べてもいないパンが乗ったままのトレイを手に立ち上がった。
「いい。もう出る」
「えっ!? で、でもあの、まだお仕事中ですよね? 食事だって終わってないし……大丈夫です、伊之助たちはあっちに座ってもらいますから!」
 いつものように必死な様子で引き留めようとする炭治郎に、少しだけ心が揺らぐ。ちゃんと義勇の目を見て言い募る炭治郎は、今までと変わりなく見えた。義勇に恋していると、真っ直ぐに伝えてきたときのままの炭治郎だ。

 現金にも浮上しかけた義勇の機嫌は、炭治郎の背後で心配そうに佇んでいる少女が目に映った途端、苛立ちに取って代わられた。

「……友達なんだろう? 俺にかまわず話してくればいい」
 返却口にトレイを返すときには、ほとんど手を付けなかったパンに罪悪感を覚えたが、それでも席に戻る気にはなれなかった。
 一度として買ったものを残したことなどなかった義勇が、大半を食べ残したことがショックなのだろうか。義勇とトレイを交互に見遣る炭治郎の顔は、幾分青ざめていた。
「あの、冨岡さん……俺、なにかしましたか? 冨岡さんを怒らせるようなことしちゃいましたか?」
 炭治郎の声は小さく震えている。義勇の不興を買うことに怯えているように見えるのは、多分義勇の気のせいではないだろう。
 言いがかりでしかない義勇の不機嫌さに不安を露わにする炭治郎は、変わらず義勇を想っているように見える。それでもそれは、店員としてと置き換えることだってできる反応だ。客が注文した料理に手もつけぬまま退店しようとすれば、店員なら当然示す態度で義勇に接しているだけのこと。
 義勇は炭治郎の様子をそう決定づけた。無理にでもそう思わねば、自分がなにを言いだすかわからない。
「こちらの都合だ、店に落ち度はない」
「そ、それじゃあの、パンは袋に入れますから、持って帰って食べてください! 冨岡さんの夕食だったんでしょう? 今、今すぐやりますから、ちょっとだけ待っててください!」
 言いながら炭治郎が返却口に置かれたトレイに手を伸ばしたが、その手は聞こえてきた大きな声にぴたりと止まった。
「おい、権八郎、空いたならここいいよな! 紋逸、早く座れよ! 腹減った!」
「声がデカいって言ってるだろっ。でも、個室みたいでいい感じだよな、この席。あ、禰豆子ちゃん、俺の隣においでよ!」

「駄目だっ!!」

 炭治郎の怒鳴り声に、飛び上がったのは少年たちだけではなく、義勇もまたびくりと肩を揺らした。店内の客もみな、炭治郎が上げた突然の大声に驚きを隠せないのか、ざわめきがやんだ。
「そこは……その席だけは駄目だ!」
 かたくなな炭治郎に、義勇は思わず眉を寄せた。それは炭治郎の誠意なのだろうが、今は喜ぶ気になどなれそうにない。
「かまわない。もうあの鉢植えもどけていい」
 素っ気なく言って、義勇はドアへと向かった。炭治郎が呼び止める気配に先んじて、食欲がないからパンもいいと言い捨てれば、炭治郎ももうかける言葉を見つけられなかったのだろう。背中に感じる炭治郎の視線を振り払うように、義勇は足早に店を出た。