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午後3時のフレンチトースト

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 炭治郎は今まで、人にぶたれたことなんてなかった。良い子だと褒められこそすれ、叩かれるような悪さなんて、一度もしたことがない。ましてや親のしつけをうんぬんされるなど、ありえないことだ。
 人に叩かれたり、自分のせいで父さんや母さんが悪く言われるなんてと、ショックで涙が出そうになる。
 けれど、それ以上に怒りがわいた。泣きべそをかくよりも、今はしなければならないことがある。自分は長男だ。これからは家を守るのは炭治郎の使命なのだ。こんなことぐらいで負けるわけにはいかない。

 駄目だ、泣くもんか。俺は長男なんだから。もう、父さんはいないんだから。泣いてちゃ駄目だ!

「返せよっ!」
 涙をこらえて、炭治郎は凛と言い放った。この代金を持ち帰らなければ、母が困る。理不尽な暴力になんて負けるものかと、炭治郎は腹に力を入れて、グッと高校生たちをにらみつけた。
「しつっけぇなぁ! いい加減にしろ!」
 高校生の手が振り上げられた。殴られる! とっさに目を瞑った炭治郎の耳に聞こえたのは、なにかを殴りつけたような音と、グエッと言う耳障りな苦鳴だ。
「なんだテメェッ、なにしやがる!」
 怒鳴り声に、炭治郎は恐る恐る目を開けた。その目に映ったのは、不良たちと同じ年ごろの少年だった。どうやら炭治郎を殴ろうとした奴は、この少年に反対に殴り飛ばされたらしい。

 きれいな人……。

 場違いな感慨に、思わず呆けた。
 白い肌、癖のある黒髪はちょっと跳ねてる。まつ毛がえらく長く厚くて、近所のお姉さんが化粧したときよりもずっと目を引く。ずいぶんと整った顔立ちの少年だ。卒業式だったのだろうか。見慣れない制服の胸元には、先週炭治郎がつけたのと似た桜の飾りがついていた。
 知り合いじゃない。見ず知らずの他人であることに間違いはなかった。
 だけれど少年は、呆然と見つめる炭治郎の前に立ち、不良グループから炭治郎を守ろうとしてくれているようだ。
 殴り飛ばされた男が、よろよろと立ち上がった。仲間があわてて大丈夫かと聞くのに、泣き言をもらす男の頬は真っ赤に腫れあがっている。よほど強く殴られたのだろう。
「なんなんだよ、テメェ! 関係ない奴はすっこんでろ!!」
「目障りだ……見苦しい真似はやめろ」
 不良たちが一斉にいきり立つなか、少年の声は淡々としていた。
「偉そうになに言ってやがんだ、テメェ! カッコつけてんじゃねぇぞ!」
「この人数相手にやる気か? 馬鹿じゃねぇの!」
 怒鳴りたてる不良たちに、少年はもう答えない。先手必勝とばかりに繰り出された長い脚が、つめ寄る男の脇腹を蹴り飛ばした。
「ふざけやがって!」
「やっちまえ!!」
 高校生たちは、炭治郎のことなどすっかり頭にないようだ。突然現れた敵にいきり立ち、一斉に少年に殴りかかっていく。

 どうしようっ! 俺のせいでこのお兄ちゃんが殴られちゃう!

 焦りと困惑はあれど、乱闘に混ざり助太刀することもできない。うかつに手助けしようとすれば、逆に少年の邪魔をしてしまいそうだ。下手をして炭治郎が捕まれば、少年は一気に不利になるだろう。喧嘩などしたことのない炭治郎には、どうすれば少年の邪魔をせず助太刀できるかなど、まるで浮かびもしなかった。
 どうしよう、どうすれば。必死に辺りを見まわしたけれど、人影はまるでない。助けを呼びに行くことも、狭い道で繰り広げられる乱闘で、走り抜けることすら難しい。
 少年の邪魔にならぬよう、やきもきと見守るばかりな炭治郎の心配とは裏腹に、少年はとんでもなく強かった。
 大振りな不良たちのパンチと違って、少年の動きには無駄がない。いっそ捨て身と思えるほどに、向かっていく様にも躊躇がなかった。
 威嚇するかのような怒鳴り声をあげる不良たちに対し、少年は終始無言だ。ときおり、避けきれなかった攻撃に小さな声をもらしはするが、反撃は素早く、悲鳴など一度としてあげなかった。

 騒動は、さして時間を置かずに終わった。粋がってはいても、殴られる経験などろくになかったのだろう。高校生たちが戦意喪失するのは早かった。
「覚えてろよっ!」
 そんなお約束の捨て台詞を残して走り去る不良たちなど目もくれず、少年は、落ちた封筒を拾い上げると、無言で炭治郎に差し出してきた。
「あ、ありがとうございます」
 あわてて手を伸ばし、封筒を受け取る。少年はなにも言わない。うなずきすらしなかった。
 正面ではっきりと見た少年の顔は、やっぱりきれいだ。けれど、無表情でありながらも、どこか暗く険しい。それこそ、見据えられる炭治郎の身がすくむほどに。
 それでも、目が。

 炭治郎を見据えた瑠璃色の瞳が、たとえようもなく悲しげなのに、やさしくて。

 知らず、少年を見返す炭治郎の目から、ポロリと涙が落ちた。
「あ、アレ?」
 なんで涙が出たのか、炭治郎にもよくわからなかった。けれども涙はポロポロこぼれて、どうにも止められそうにない。
 少年から戸惑う匂いがする。泣く炭治郎を置いて立ち去ることもできず、困惑していることは明白だ。

 どうしよう、俺は長男なのに、知らない人の前で泣くなんて恥ずかしい。助けてくれたのに困らせるなんて駄目だ。泣きやめっ。

「ご、ごめ、なさ」
 必死に泣きやもうとしたけれど、涙は止まってくれなかった。やさしい瑠璃色の瞳が、狼狽をあらわに炭治郎を見ている。
 お金を取られずに済んだ安堵なのか、それとも、不甲斐ない自分に対する悔しさなのか。あふれ出る涙の理由は、炭治郎にもよくわからなかった。少年の瞳が呼び水となったのは確かだけれど、だからこそ、泣いてはいけないと思う。恩人である少年を、困らせるなど言語道断だ。
 泣きやめ、泣きやめと、うつむき必死に自分に言い聞かせていた炭治郎の頭に、トンっと、なにかが触れた。
 頭に置かれたのは、やさしい手。子供と接し慣れていないのだろう。しゃがみ込み、小さく撫でてくれる手は、ぎこちない。
 炭治郎の瞳は涙で濡れて、少年の顔もぼやけて見える。少年のやさしさが、炭治郎の胸を締めつけた。
 とうとうしゃくり上げて、嗚咽をこぼした炭治郎を、少年は無言のまま、ただ撫でつづけてくれた。

 父を亡くしてから、ずっと我慢してきた。泣いたら駄目だと、誰の前でも一所懸命笑ってみせた。
 悲しかった。つらかった。父にもう二度と逢えないことが寂しかった。でも、不幸せだと思ったことはない。
 悲しくても、不幸になったわけじゃない。炭治郎はちゃんと幸せだ。だって母も、禰豆子も、竹雄たちだっている。みんなを頼むなと、父にも任された。信頼してもらったのだ。
 家だってちゃんとあるし、ご飯だって変わらず食べられる。お店も繁盛しているから、今までより大変になることはあっても、不幸せになったわけじゃない。
 なのに、誰もが炭治郎をかわいそうだと言う。人のやさしさや思い遣りが、炭治郎を『かわいそうな子』へと変えてしまった。幸せな子とは、もう誰も思ってくれない。ちゃんと幸せなのに、悲しくてもつらくても、幸せがなくなったわけじゃないのに、誰も彼もが炭治郎を憐れむ。