二次創作小説やBL小説が読める!投稿できる!二次小説投稿コミュニティ!

オリジナル小説 https://novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
二次創作小説投稿サイト「2.novelist.jp」

午後3時のフレンチトースト

INDEX|3ページ/4ページ|

次のページ前のページ
 

 だから余計に泣けなくなった。かわいそうなんかじゃないよ、ちゃんと俺は幸せなんだよと、笑ってみせる以外に、なにができただろう。声を荒げて「かわいそうじゃない」と言えば、それこそ母が悪く言われるかもしれない。人の思い遣りを素直に受けとめきれない、ひねくれた子。そんな言葉で母が責められるのは絶対に嫌だ。
 こんなふうに泣いては、この人にも憐れまれるかもしれない。かわいそうにと言われるかも。泣いているせいで鼻が詰まって、匂いがよくわからない。少年がどう思っているのか気がかりなのに、匂いを嗅ぐこともできなくて、不安がふくらむ。

「……おまえが、羨ましい」

 不意に聞こえた声は、聞き取りにくいほどに小さく静かだった。どこか痛みをたたえているような声だ。
 少年の顔は、感情をどこかに置き忘れてきたかのように無表情で、言葉の真意はまるでわからない。けれども瑠璃色のやさしい瞳が、泣きだしそうに揺れていた。炭治郎よりもよっぽどつらそうに。
 泣く「かわいそうな子」である炭治郎を、羨望の目で、少年は見やる。つらく悲しく、叫びだしそうな痛みを、瞳の奥ににじませながら。
 ヒクリとひとつしゃくり上げ、ようやく泣きやんだ炭治郎は、濡れた目をまばたかせた。
 少年の手が静かに炭治郎の頭から離れた。立ち上がった少年は、炭治郎をどこか苦しげな目で一瞥すると、なにも言わずに踵を返した。
「あ、ま、待ってっ」
 引き留める炭治郎の声にも、足早に去る少年は振り返ってはくれない。
 名前が知りたい。もっとちゃんとお礼をしないと。泣いちゃってごめんなさいって言わなくちゃ。
 また逢えますか。そう、聞きたい。また逢ってくださいと、お願いしたい。
 だけれど、炭治郎は、なにも言葉にはできなかった。
 少年の背中は、見る間に遠く小さくなっていく。ずいぶんと足が速い。もうきっと追いつけない。

 見えなくなった背中を探すように、その場に佇んだまま、炭治郎は取り返してもらった封筒を、キュッと胸元で握りしめた。
 ふわりと心が軽くなったのを感じる。トクン、トクンと、鼓動がやわらかく甘い音を立てる。

 あの人にとって俺は、かわいそうな子じゃない。幸せな子なんだ。かわいそうなんかじゃ、ないんだ。

 それがただ、うれしかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 カランコロンと軽やかなドアベルが鳴る。集金後に店へと直接帰るのはいつものことだ。常連客たちが明るく声をかけてくれるのに、炭治郎も愛想よく返事する。
「おかえり、炭治郎」
「ただいま、集金してきたよ。あとこれ、いつもの貰った」
 厨房から顔を出した母に言えば、母も穏やかに笑い返してくれた。
「いつもありがとう。ご苦労様。ちゃんとお礼は言った?」
「大丈夫、言ったよ。食べたら俺も店に出るから。母さんの分とっておくから、交代で休憩しなよ」
 集金した代金の入った封筒を母に手渡して、炭治郎は、自宅へとつづくドアを開けた。竈門ベーカリーは職住隣接だ。店よりも居住スペースのほうがよっぽど狭いくらいだけれども、狭いながらも楽しい我が家。どこにいても家族の誰かしらの気配がする家は、にぎやかだし落ち着く。
 台所に直行し、貰ったフレンチトーストを皿に取り分ける炭治郎に、さっそく気づいた茂と六太が走り寄ってきた。
「兄ちゃん、おかえり!」
「おやつ?」
「あぁ。フレンチトースト貰ったぞ。温めてやるからな、ちょっと待ってろよ」
 レンジに皿を入れながら笑って言えば、小さな弟たちがうれしそうにはしゃぎだす。
 商店街の洋食屋に集金に行くと、フレンチトーストのお裾分けをくれることがある。昔からそうだった。しっとりフカフカとした甘いフレンチトーストは、賄いだけなのが残念なほどに絶品だ。竈門家の子供はみんな、このお裾分けが好物だった。

 あの日も、このフレンチトーストを食べた。

 思い出す懐かしい光景に、炭治郎の頬がわずかに緩んだ。
 泣きはらした顔で帰った炭治郎を、驚きに目を見張った母は、それでもやさしく抱きしめてくれた。封筒とフレンチトーストを差し出した炭治郎に、えらかったね、ありがとうねと笑い、どこか痛いところはない? と聞いた母は、泣いた理由を問わなかった。
 そして、あの日も炭治郎は、温め直した甘いフレンチトーストを食べた。口に広がるやさしい甘さは、なぜだかいつもよりも甘く感じられて、やるせない気持ちはもうどこにもなくなっていた。

 少年には、あれ以来一度も逢えない。二度と逢えないのかもしれないと、覚悟はしている。

「ホラ、できたぞ」
 わぁいと喜ぶふたりを微笑ましく見つめ、炭治郎も席につく。自分の分を半分に切って、さらに半分にしたら、茂と六太の皿に置き、いっぱい食べなと笑いかけた。
「いいのっ?」
「兄ちゃん、ありがと」
 父もよくこうしてくれた。茂や六太には、父との思い出が少ない。だから炭治郎は、父の代わりに、父が炭治郎たちにしてくれたことを、茂たちに繰り返す。
「甘いねっ、兄ちゃん」
「おいしいねっ」
「そうだな」
 フレンチトーストは、あのころとまったく味が変わらない。相変わらず絶品だ。

 だけど、あの日のフレンチトーストは、いつもより甘かったな。

 泣きはらした目のまま食べたフレンチトーストの甘さは、思い出とともに、炭治郎の胸に残っている。少年の瑠璃色の瞳を思い出すたび、あの甘さが胸に広がるのだ。
 もう一度逢いたい。願ってもかなえられることはなく、気がつけば炭治郎も高校生だ。少年を思い出すたび甘く切なく胸打つ鼓動は、最初は理由などわからなかった。これが初恋なのだと気づいたのは、ふらりと立ち寄った書店で買った本を読んだときだ。
『もう一度逢いたい』
 炭治郎の心情そのままのタイトルに惹かれて手に取ったその本は、それまで一度も興味を引かれたことなどない恋愛小説だった。真滝勇兎という作家の書いた小説は、たぶん内容的にはありふれたものだったのだろう。筆致もとくに目を見張るものはなく、初々しい初恋の物語が、淡々とした文章で書き綴られていた。
 読み進めるあいだ、炭治郎は何度うなずいたことだろう。主人公のいだく恋心は、少年を思い出しているときの炭治郎の心そのままだった。

 初恋。窮地にいた自分を助け、心まで救ってくれた、あの少年に恋してる。

 自覚してしまえば、炭治郎のなかで、再会を夢見る心は強くなった。けれど、願ったところでそうそうかなうわけもない。名前すら知らない人なのだ。何度かあの道にも行ってみたけれど、一度も見かけることはなかった。
 それでもいつかと願う心は、高校生になった今も消えてはくれない。
 真滝勇兎の本を、必ず買うようになった。なけなしの小遣いをはたいて、既刊をすべて買い求め――と言っても、あのころはまだ二冊きりだったけれど――夢中で読んだ。真滝の本は不思議だ。ほかの作家の恋愛小説も図書室で借りて読んでみたけれども、真滝の本ほど炭治郎の心を揺らすことがない。
 初めてファンレターを書いたのも、真滝に宛ててだった。