BUDDY 8
死闘を繰り返したわけでもなく、どのマスターもサーヴァントもピンピンしているが、聖杯は凍結管理され、英霊たちを繋ぎ留めてはいるものの、願望器の役割を果たせない状態だ。
(まあ、もともと壊れていたらしいが……)
それは、以前にアーチャーが経験した聖杯戦争と変わらない状況であり、おそらく、そうだろう、とはアーチャーも予測していた。だが、こんな結果に陥るとは思ってもいなかったため、拍子抜け、という気がしないでもない。
(そろそろ、結論を出さなければならない……)
士郎のことを棚上げにしていたが、聖杯戦争に終止符が打たれたため、本腰を入れて向き合わなければならない。
凛たちが寝静まってから久しぶりに客間を訪れようと決め、席を外した凛の代わりに、セイバーに紅茶を淹れて労っていた。
そこへ凛とともに現れた士郎に、アーチャーは愕然とした。士郎が凛の使い魔となったということを聞き、なぜか、先を越された、と地団駄を踏みたい気分に陥っている。
不可解でしようがない。
なぜ凛に嫉妬めいた感情を向けているのか。いや、それよりも何よりも、凛の申し出に簡単に応じた士郎に腹が立って仕方がない。
我々の十年あまりは、いったいなんだったのかと問い質したくなる。
実際、凛に苦言を呈し、凛たちがいなくなってから士郎を問い詰めた。士郎は驚いたような顔をしたまま何も言わない。
おそらく何か事情があったのだとはわかっていたが、そのときのアーチャーは、湧き上がる怒りを抑えられず、ただ士郎を責め立てた。
(八つ当たりもいいところだ。アレにもそれなりの言い分があっただろうに……)
反省しながら屋根の上で頭を冷やしている。
ずっと士郎と話す機会を窺っていたが、聖杯戦争の方が急展開しそうになり、遠坂邸に戻ることができなくなり……、今、アーチャーは凛のサーヴァントとして、士郎は彼女の使い魔として、それぞれに契約している。
士郎が知らぬ間に消え失せるという事態は免れたものの、アーチャーとしては、士郎とどう接していけばいいのかが悩ましい。
決して短くはない時間をともに過ごし、それなりの絆と堅固な繋がりを持っていた。それが突然解消されて、アーチャーは八つ当たり同然の態度を士郎に取ってしまった。
(無茶苦茶だな、オレ……)
反省することしきりだ。
(それに……)
風呂場で見た士郎の涙、士郎との口づけ、熱い口腔内、知っていた柔らかさ、その身体の内側にまで触れて、制止する士郎を無視し、洗浄を言い訳に、どこまでも追い詰めるように“後始末”をした。
見つめてくる琥珀色の瞳が、あんな蕩けた色になるなど知らなかった。
士郎の意識は確かにあったというのに、名残惜しげにキスを求めてくるとは思わなかった。
生前には恋人だけが士郎のああいう姿を見ていたのだろうと思うと、何やら鳩尾あたりがざわざわとして落ち着かない。
そういうそぶりも雰囲気すら醸し出すことのなかった士郎にあんな一面があったことに驚いている。
いつだって士郎は清廉潔白だとアーチャーは思っていた。それが、あんなことをし、あんな表情《かお》をして……、と苦いため息がこぼれてしまうのを止められない。
「はぁ…………」
聖杯の処分なり、処理なりが済み、サーヴァントの現界する意味がなくなってしまえば、アーチャーは座に還る。
それまでの辛抱だ、と自分に言い聞かせ、それまで士郎とは当たり障りなく過ごしていけばいいと、怒りも何も士郎にぶつけることなく、ただ時が過ぎるのをアーチャーは待つつもりでいる。
気づきかけていることはたくさんあるが、そのどれもが、無意味なものであり、突き詰めたとて、何もいいことがないのは明らかだ。
座に還ることを考えて、ふと思い出す。生前の士郎が泣いていたときのことを。
確か、聖杯戦争が終わり、アーチャーが座に還ってしまうと勘違いして、士郎は一人、衛宮邸の道場で泣いていた。
ああいった状況には二度と関わりたくないとアーチャーは思っている。小さい子供であればまだしも、大人に近い年齢で子供のように泣かれては途方に暮れるしかない。
だというのに、風呂場で士郎は泣いていた。あんなものが体内に入っていたのだ、驚きもするだろうし、恐怖も感じただろう。
(なのに、私は……)
慰めもせず、乱暴に洗浄することに意識を集中させていたのだ。
さぞや、痛かっただろうと思う。身体もだろうが、心が痛んだだろうと反省することしきり。
(その上……)
風呂を出てから、少し士郎と話した。そのときにもまた士郎を傷つけてしまった。
(あんなことを、揶揄して言うのではなかった……)
あまりにも腹が立っていて、卵でも産み付けられたのか、などと言ってしまった。あの行為を士郎が望んでいなかったとわかっていながら、あの蛇男と愉しんでいただろうと、そういう気持ちがどこかにあったのだ。
表情を失くし、抑揚を失くした士郎の声が今も耳にこびりついている。泣きはしなかったが、士郎は明らかに傷ついていた。
謝ったところで許されるはずがないと思ったというのに、士郎はすぐに笑顔を見せた。
どうしてあんなふうに笑えるのかがわからない。
傷つけられた相手と話し、笑みを浮かべることができるのは、士郎の懐の大きさなのだろうか、と疑問が浮かぶ。
(いや、士郎は……)
何もかもを抑え込み、我慢をしている。
そんなことに、今になって気づいてしまった。
凛の使い魔となった士郎とは、何かと口論が絶えない。
以前のように、アーチャーに対して控えめに接することがなく、言いたいことを言っているように思える。いつも我慢をしていると思っていた士郎が、だ。
(急に、なんだというんだ……)
はっきりいって、アーチャーは戸惑っている。
今まで軽口を叩くことはあった士郎だが、反発や反論を真っ向からしてくることはなかった。冷静に思考した上での意見であればいくらでも言う士郎だったが、感情のままに口答えをすることなどなかったのだ。
それはそれでおかしいことなのだが、今までがそうであったため、アーチャーは首を捻ってしまう。
台所で朝食を作ろうとしている士郎を追い出そうとしたが、勝手な理屈を述べられ、一緒に作ることになってしまった。遠坂邸の台所は狭くはないが、男二人がウロウロするには少し手狭である。だというのに、士郎はテコでも出て行こうとはしなかった。
仕方がないのでアーチャーの補助という名目で、ともに作ることになったのだが……。
(無意識なのだから、仕方のないことだと思う。だが……)
間近で見上げられると、風呂場でのことを思い出してしまう。
(士郎は忘れてしまっているのだろうか……)
ためらいもなくアーチャーの胸元に手を置き、台所から押し出そうとしていた士郎は、真っ直ぐに己を見上げてきた。
どきり、と心臓が跳ねた。そうして、ぎくり、としていた。
気づかれてはまずい。
まず、それが一番に念頭に上がった。
その唇を、もう一度貪ってみたい。たどたどしく答える舌を、熱く不器用に求めてくる唇を、もう一度……。
こんなことを士郎に気づかれてしまえば、金輪際近づくなと言われるだろう。