BUDDY 8
「怖がることなんざねえだろ? 気持ちよーくしてやるよ」
「んっ、っ、」
逃げようとすればするほど、塞がれた口を強く押さえつけられ、壁に頭が押し付けられる。
「あの服、どうしたんだ? もう着ねえのか? あの服着てくれたらヤりがいもあるんだけどよ?」
シャツの中にランサーの手が忍び込んでくる。脇腹を撫で上げる手や指の感覚に怖気が走る。
「ぅんっ、んぐ」
暴れようとすれば押さえ込まれ、ランサーの手は意図的ではないだろうが口だけでなく鼻も塞いでしまっている。
苦しくてもがく。
口を塞ぐ手を剥がそうと、爪を立ててもビクともしない。
このまま、どうなるのだろう、と考えて、ランサーの言葉の意味をようやく頭が理解しはじめた。
(いや……だ……)
ランサーが魔力をくれるという意味は、間違いなくあの行為のことだとわかった。まがりになりにも士郎は魔術師だ。魔力供給の方法も熟知している。ただ、今までやった試しがなかったというだけのこと。もし必要であれば、士郎もその選択をすることがあったのかもしれないが……。
(いや…………)
もう二度と、あんなことはしたくない。どんなに魔力不足でも、好きでもない者と肌を合わすなどごめんだ。
意識が遠のく寸前、
「何をしている」
静かな声が耳に届く。
この状況を見て、怒鳴るでもなく憤るでもない、抑えた低い声は、崩れかけの士郎の心を深く抉った。
(その程度の……こと…………?)
アーチャーにとって、こんな光景はどうでもいいことなのだと理解した。
(ああ、そうだよな……)
ふ、と目の前が暗くなった。
目が覚めると遠坂邸のリビングの天井が見える。薄暗いが夜ではなく、もう明け方のようだ。
「あれ……俺…………」
「目が覚めたか」
ぬっと視界に現れたアーチャーに、目を剥き、思わず飛び起きた。
「む。貴様、頭突きでもする気か」
「え? あ……、そんなつもりは……」
確かに今の勢いだとアーチャーをめがけて頭突きを繰り出したように思われても仕方がないだろう。ただ、ひょい、と軽く避けたアーチャーが、士郎の頭突きをおとなしく喰らうわけはなさそうだが……。
「び、っくりして……」
「大丈夫か?」
「え……?」
何に対してのことだろう、と士郎はアーチャーを見上げる。
(俺のことなんか、どうでもいいんだろ、アンタは……)
士郎がランサーに押さえ込まれていても、たいして動じることもなく、アーチャーは、何をしているのかと普通に訊ねていただけだ。
(俺が、ランサーに何されたって、アンタは——)
す、とアーチャーの手が伸びてきて、首筋に触れる。
「っ! な、……んだよ!」
さっと逃げた士郎はソファの隅に後退る。
「い、いや、強く押さえられていただろう? 問題はないのかと……」
言い訳のように辿々しく説明するアーチャーに驚きを隠せない。
「へ、平気。なんともない」
士郎に触れようとしていたアーチャーの手をそっと押し返して、顔を逸らした。
(どうでもいいんじゃないのかよ……?)
アーチャーの行動がよくわからない。
なんの興味もないようなのに、こうして時々心配するそぶりを見せる。
「問題ないのならば、いい」
少し沈んだような声だった。どうしてしまったのかとアーチャーを見上げたが、すでにアーチャーは士郎に背を向け、床に転がったランサーを足蹴にして起こしている。
(ランサーが、とっ捕まった泥棒みたいになってる……)
何があったのかはわからないが、とりあえず身の危険は去ったのだと理解して、クッションを抱き寄せ、ソファに身体を預ける。
「はぁ……」
ランサーに口と鼻を塞がれ、酸欠で気が遠くなったことは覚えている。そのまま寝てしまったのだということも予想がついた。ただ、アーチャーの態度が腑に落ちない。
(なんなんだろ?)
考えたところで、何も思い当たらず、士郎は気にしないでおくことにした。
その後、凛が起床し、ランサーが士郎に謝り、追い出され、日常の朝がやってくる。
警戒するべき相手はいなくなったというのに、士郎は落ち着かない。
昨夜のアーチャーの対応に納得がいかないというのに、今朝のアーチャーの態度に戸惑ってしまう。
(放っておいてほしいな……)
どうでもいい者だというのなら、それなりの態度で接してほしいと思う。変に期待をさせないでほしい。
(もう、好きでいるのは、苦しいのに……)
洗濯をするから、と朝食の場から逃げ、ズキズキと疼く胸を押さえて、苦いため息をこぼしていた。
(なんだろう……?)
このところ、アーチャーの視線が突き刺さるようで痛い。
(俺、何かヘマしたかな……)
小言でもあるのかと思うが、そういう雰囲気ではない。
(なんか言いたそうな顔してるけど……。話がしたいとか、そういう感じでもないような……?)
首の後ろあたりが気になって、片手でさすりながら掃除機をかけていた。電化製品を含めた機械音痴の凛の家には、最新式のコードレス掃除機などなく、昔ながらの有線タイプだ。しかも、どこかの事務所やビルで使われるような業務用の大きな物で、階段を持って上がるのも士郎には一苦労だった。
(俺、遠坂よりも力がないかも……)
やや落ち込みながら階段の下にまで来て、スイッチを切り、電源プラグを抜くために、今し方、掃除機をかけながら来た廊下を戻る。
「あ」
士郎が向かおうとした先に、アーチャーがいた。電源プラグをすでに抜き、コードを纏めながらこちらに歩いてくる。
「あり、がとな」
コードを受け取ろうと手を出したが、アーチャーは、すい、と士郎を避けて通り過ぎる。
「二階は私がかけておく。お前は洗濯物を取り込め」
「でも、」
「二階に用がある」
「え? あ、そう……なのか……」
それ以上は何も言えず、士郎はアーチャーに言われた通り、庭に続くテラスへ向かった。
(話があるっぽいけど、面と向かうと目も合わせてくれないしな……)
アーチャーが士郎に話したいことといえば、教会の地下石室でのことだろうと士郎には予測がついている。
なぜあんなことをしたのか、と問い質されるに決まっていた。キャスターに与するなど言語道断だと罵られることにもなるだろう。
「はぁ……」
アーチャーの視線は気になるものの、話すとなると気の重い内容でしかない。
(自由だなんて思ったけど……、そうでもなかったな……)
契約や繋がりはないが、結局、士郎がアーチャーの一挙一動に縛られていては、本当の自由などではない。
鬱々としてテラスに着くと、春を感じさせる風が洗濯物を揺らしている。
「ちょっと、休憩」
重い掃除機を引きずって一階の部屋を掃除して回っただけで士郎は疲れてしまっていた。
開け放ったままの掃き出し窓の縁に腰を下ろし、テラス側へ足を伸ばす。
「はは……、気持ちいー……」
緩い風が頬を撫でていく。真冬ほど冷たいものではない。
「もう、春だなぁ……」
季節が進もうとしていることに気づく。
「いつまで……」