BUDDY 9
士郎がどうなろうが、誰に囚われようが、あんなことをしていようが、アーチャーが気にかけることはないと士郎は決めてかかっていた。
“忘れ去りたい汚点”とアーチャーが感じていることは知っていた。
だというのに、アーチャーは自らキャスターとの一件を口にし、さらに後悔していると言うのだ。
驚いて当たり前だ。
士郎には予想すらできなかった。アーチャーが教会でのことを思い返し、どう思っていたのかなど。
(気にも留めないんじゃ、ないのか……? 俺が何しても、どんな目に遭っても、アーチャーの心は動かないんじゃ……?)
士郎が沈黙したからか、アーチャーは視線を落とす。まるで、責め立てられて困っているような表情だ。
(俺……、アーチャーを、困らせている……のか?)
そんなつもりはないというのに、黙してアーチャーを責めているように捉えられているようだ。
(違う……、俺は責めてるんじゃない、アーチャーは何も……)
悪くはないのだ、アーチャーは。
キャスターに捕まったのも、地下石室であんな行為に及んだのも、士郎の落ち度である。アーチャーに指示されたわけでもなく、どちらかといえばアーチャーは、表に出てくるなと士郎に言っていたのだ。
勝手にキャスターの前に飛び出したのは士郎自身。そのことをアーチャーが責められる謂れはないだろう。
(どうして……)
何が、アーチャーをそんな考えに導いたのか。
なぜアーチャーがしおらしくなる必要があるのか。
打ちひしがれるているように見えるアーチャーを慰めようと、思わず手を伸ばしかけ、ぎゅ、と拳を握りしめる。
(ダメだ……、安易に触れていい奴じゃない……)
自分たちはそんな関係ではない。
アーチャーはずっと士郎を相棒《バディ》だと思っている。たとえ士郎が否定しても、アーチャーの認識は変わらない。
(相棒《バディ》は相棒《バディ》らしく、無闇に触れたりはしないんだ……)
きゅ、と唇を引き結び、少し呼吸を整えてから口を開く。
「ア、アーチャー、あの……」
声が震えてしまう。ますます拳を握りしめた。
「そ……それこそ、アーチャーが、責任を感じることじゃ、な…………ぃ……」
どうして、声が詰まるのか。
どうして、目の前のアーチャーが滲んでいくのか。
「士郎……」
そっと頬に触れた手が温かく、優しく撫でてくる。
アーチャーのせいではないと言わなければならないというのに、全く言葉にならない。
何度も息を飲んだり吐いたりして、結局、言葉にできたのは、奥底から溢れてくる、あのときの感情。
「俺…………いた……くて…………ど、していいか…………わからな、くて……、こわ……くて、こ…………こわ、っ…………い、いたっ……ぃ、の……と、きも……ち……が…………」
アーチャーに訴えたところで、どうにもならないことはわかっている。だが、自身の胸の内に抱えているには大き過ぎ、そして重過ぎて、忘れようとしていたあのときの感情を消してしまうことができなかった。
快感に埋め尽くされていく自身の身体に恐怖し、ただ快楽を追ってしまう己の浅ましさを嫌悪し、アーチャーへ募らせた長年の想いが満たされないことに絶望して、あの地下石室での時間は永遠のように長く……。
べつに、大切にしていたわけでもないのに、失ってしまった初めての行為は、どれもこれも吐き気がするのに気持ち好かった。それが何より士郎の心を痛めつけた。
「お…………れは、……あんな、こと…………」
一度こぼしてしまえば、堰を切ったように、言葉も涙も止まらない。悔しさと哀しさと苦しさと情けなさと、綯い交ぜになった士郎の感情は濁流のようにせり上がり、濁りのない涙となってこぼれ落ちていく。
「あんな…………こと……っ…………あんな、バカな……こと…………」
催淫作用のある体液のせいもあったが、士郎はアーチャーの幻覚を見て、自分からあの異形を求めた。快感が理性を塗り潰し、異形をアーチャーに塗り変え、ひとり昂り、ひとり果て、孤独の中で絶頂を極めた。
その浅ましい姿をアーチャーに見られていたと知り、正気でいられなくなったのは、当然の理だ。あとはもう、キャスターに命じられるまま、救出に力を貸してくれた凛たちを傷つけ、アーチャーを傷つけ、もう消されてしまえばいいと自棄《やけ》になった。
けれども、アーチャーは諦めてくれなかった。傷だらけになって士郎を救い出した。
元来、エミヤシロウは諦めの悪い男だ。だとしても、自分自身を救うために骨を折ることなど、ましてや身を切ることなど、絶対にないと士郎は思っていた。
あの地下石室に押し込められ、痛めつけられている間も、士郎は助けがくるとは期待していない。ここまでだった、とアーチャーは早々に見限るものだとタカを括っていた。だというのに、アーチャーは士郎を連れ戻しに来て、今も士郎の魔力不足を気にかけ、何かと世話を焼いてくれる。
(どうして、俺なんかに……)
相棒《バディ》だからだろうか、それとも、何か別の理由があるのか。アーチャーに訊いてみなければわからないが、相棒《バディ》だからだと言われてしまえば、また苦しくなってしまう。
(もう、訊けない……、もう……、アーチャーの答えに、絶望するのは……、もう、嫌だ…………)
止まらない涙をどうすることもできなくて、頬に触れた手から逃れ、背を向けようとすれば、肩に腕を回され、アーチャーの方を振り向かされる。
「ぁ……」
強引ではなく、気遣うような手つきで抱き寄せられていく。
「ぇ…………?」
背中をさする手は温かくて優しい。
(アーチャー……?)
アーチャーに抱きしめられた記憶があるのは、死の間際だった。あのときとは少し違う。それに魔力供給のときとも違う。
こんなふうに包み込むような優しい抱擁は士郎の記憶にはない。
うれしかった。
想いが報われたわけではないが、想い続ける相手に優しく抱きしめられるというのは、こんなにも幸福な気持ちになるのだと知った。
「私がモタついていたからだ……、すまなかった」
(なんで……アーチャーが、謝るんだ……?)
違う、と、アーチャーに責任などない、と、言おうと思うのに言葉にならず、何度も首を振って否定する。
「キャスターにお前を奪われ、引きちぎられたようだった。それが、今も……」
「え……?」
驚いてアーチャーの胸から顔を上げる。
「いまだに、その感覚が残っている……」
(アーチャーも、同じだったのか……)
士郎もその感覚を持っている。キャスターとの契約が切れても、凛と契約をしても、引きちぎられた感覚は消えてはくれなかった。
「真の意味では無事とは言えない。お前が受けた痛みも屈辱も、晴らすことのできない怨嗟でしかないだろう。だが、お前という存在を無事に取り戻すことができて、よかったと思っている……」
アーチャーは士郎の額に己のそれを、こつり、と当てて瞼を下ろす。近過ぎて見えないアーチャーの表情は、どことなく微笑を浮かべているような感じがした。
(少しだけ、我が儘を言ってもいいのかな…………?)
先ほど、嫌ではないとアーチャーは言った。