BUDDY 9
そこはキッチンで、リビングからは直接見えないとはいえ、密室などではない。寝起きに水を一杯と思ってキッチンまで近づけば、そんな光景が目の前にあるのだ、朝からどっと疲れてしまってもしようがない。
「あのー……、もう少し、憚ってもらえるかしら?」
主の存在にさえ気づかなかったのか、二人揃って、あ、とこぼしながらこちらに目を向ける。
離れた唇の間に細い糸が引いたのが見え、凛は、ひくり、と口角を引き攣らせた。
「他所《ヨソ》でやれっ!」
そのまま凛は大爆発を起こし、即座に従者たちへの説教がはじまる。
鼻息荒く懇々とTPOやら配慮やら諸々の気遣いについて話して聞かせる凛に、
「凛」
手を上げてアーチャーが発言を求めた。
「何よ!」
刺々しく訊く凛に、
「もう出なければ、遅刻ではないか?」
「はあ? 遅こ……、え?」
時計を確認した凛は、さぁっと青くなる。
「凛、早く顔を洗って来い。士郎、凛の制服と鞄を」
「わかった」
アーチャーの指示にすぐさま動く士郎と違い、凛はワタワタとその場でパニックだ。
「落ち着け。サンドウィッチとおにぎり、どちらがいい?」
「え? さ、サンドウィッチ」
「よし。さあ、洗面を済ませて、髪を整えろ」
アーチャーは洗面所へと凛の背を押す。
「え? あ、アーチャー?」
「連れて行ってやる。どのみち、衛宮士郎と合流するのはもう無理だろう」
「あ、うん、そそ、そうね」
身支度をしながら凛が答えたところに、士郎が制服と鞄を持って戻ってきた。
「遠坂、制服持ってきたぞ」
「あ、ありがと」
受け取った凛は、洗面所へ向かい、すぐに着替えをはじめた。その間にアーチャーは弁当の包みを鞄に入れ、士郎は凛の朝食となるサンドウィッチと冷蔵庫からテトラパックのジュースを取ろうとして、野菜系とフルーツ系に一瞬迷い、野菜ジュースを手に取る。
「お待たせ」
凛が支度を済ませると、アーチャーが凛にコートを着せ、士郎が鞄と朝食を手渡す。
「いってらっしゃい」
にこり、と笑った士郎に頷き。
「いってきます。ありがと、士郎」
少し照れ臭さがあるのか、不機嫌に言った凛は、アーチャーに急かされて玄関を出る。
「気をつけてな」
玄関の中から手を振る士郎に答え、凛はアーチャーに抱えられて学校へと向かった。
「ねえ、アーチャー」
「なんだ」
サンドウィッチをアーチャーに運ばれつつ食べる凛は、ふと先ほど思ったことを呟く。
「士郎をね、外に出してあげたいの」
「…………無理だろう」
「ええ。わかっているんだけど……」
「その気持ちだけで、アレは喜ぶと思うがな」
「そうかもしれないけど……。私たちはこうやって普通に外に出られるのに、あいつは、うちの敷地から出られないじゃない。お買い物も、買い食いも、聖杯戦争中は無理だったけど、今はできるじゃない。せっかく楽しめるかもしれないのに、士郎はずっとあそこに縛られたままでしょ……」
「凛、士郎はそんなことを考えてはいない」
「どうしてわかるの? アーチャーと士郎は違う存在でしょ? アーチャーの考えが士郎と同じ考えだなんて、そんなわけがないじゃない」
「それは……、そうだが……」
「なんとかできないかしらね……。せめてアーチャーと五分五分で魔力が調整できたらいいんだけど……」
「……そうだな」
気乗りしないアーチャーの返答に、凛はムッとする。
「アーチャーは今のままがいいでしょうね」
「なぜ、そう思う?」
「だって、うれしそうだもの、魔力をあげているのが」
「…………は?」
「うれしいでしょ?」
見上げたアーチャーは、フイとそっぽを向いてしまったので、表情は見えなかった。だが、褐色の耳が少し色づいているように見えたのは、気のせいではない、と凛は確信している。
(アーチャーって、士郎のことは、だいぶ気に入っているわよね……)
同じ士郎でも、この世界の衛宮士郎にはかなりの塩対応であることを凛は知っている。
衛宮邸にいるときによく見かけるのは、衛宮士郎が言い負かされ、ぞんざいな扱いを受けているところだ。悔しげにアーチャーに噛みつく衛宮士郎は、何度も果敢に挑んでいるようだが、悉く敗北に終わっている。
衛宮士郎に対してのアーチャーの感情は皆無に思える。だが、士郎に対しては並々ならぬ配慮と感情が窺えるのだ。同じ風体であってもアーチャーにとって衛宮士郎と士郎は完全に別物で、衛宮士郎は全く眼中にない。
(士郎に対しては……)
魔力が少ないのが原因でもあるが、甘やかしているようなところもあり、過保護なところもあり、心配性、かまいたがり、束縛、ややストーカー、そしてやたらと距離が近い。
(ん? あれ? えぇ? んんん?)
凛は、サンドウィッチを食べ切り、野菜ジュースを思いきり吸い、
(もしかして、アーチャーって…………)
呆気にとられた後、ふふ、とほくそ笑んだ。
「凛、そろそろだが?」
「え? あ、あの辺の路地で下ろして」
家々の合間、細い路地の人目がないところへ降り立ったアーチャーは、凛をそっと地に下ろした。
「ありがと、アーチャー」
「君こそTPOを考えた方がいいぞ」
説教のことはもう不問にしようと思っていたというのに、アーチャーがそんな厭味を吐くものだから、凛は再び怒りを再燃させた。
「…………。ええ、ああ、そうね! だったら、あんなところで、あんなことしなきゃいいじゃない」
「魔力をせがまれたのだから、仕方がないだろう?」
アーチャーは悪びれもせずに肩を竦めて口答えする。ひく、とこめかみが引き攣るのを指先で押さえながら凛はアーチャーを見上げる。
「へー、そう。ふーん、士郎のせいってワケなのね?」
「い、いや、そういうことでは、」
「帰ったら、士郎に言い聞かせておくわね。アーチャーが迷惑するから、もう少し時と場所を考えて魔力をねだりなさい、って」
「いや、いい! そんなことを言えば、士郎が、」
「士郎が、なあに?」
「っ……う…………、す、すまなかった」
「最初から素直に謝ればいいのに! ほんっと、ひねくれてるんだから!」
「…………地獄に落ちろマスター」
ぼそり、とあらぬ方へ吐かれた愚痴を聞かなかったことにして、凛は黒髪をパサリと払う。
「送ってくれてありがと。今日は、衛宮くんの家で魔術の指導をするから遅くなるわ。晩ご飯もいただいてくる予定だし、ゆっくりしていていいわよ、し、ろ、う、とね!」
「む……。そ、それで、迎えはどうする? 夜になるのだろう?」
「べつに平気だけど、衛宮くんが黙ってないかもしれないわね……、そのときはセイバーにお願いするから大丈夫よ」
二人でゆっくりしていなさい、という意味を含めて言えば、
「了解した」
言い終わらないうちに霊体となったアーチャーが、即座にその場を離れたのがわかった。
「そぉーんな急いで帰らなくっても……」
くすり、と笑みをこぼし、凛は学校へと歩き出す。
(そっかぁ……、アーチャーがねぇ……)
岨道に足を踏み込んでいる様子の己が従者を、どう応援してやればいいかしら、と凛は宙を見ながら思案する。