真昼の月のように
日本料理も浸透して久しいパリだが、児童養護施設や寮や学校での給食に、日本食が出たことはない。箸など一度も使ったことがないのだから、うまく使えなくても当然ではないかと思いはする。だが、月彦の強固な自尊心が傷つけられるには、じゅうぶんすぎる食事風景だったのだ。
炭治郎も義勇も、慣れないのだから気にすることはないと言って、すぐにフォークを出してくれたが、月彦にとっては屈辱であったのに違いはない。
そしてその晩、月彦は熱を出したわけである。
風呂に一緒に入れられて、幼児のように髪やら体やらを洗われるだけでも、ごめんこうむる事態だったというのに、食事でさえまるで赤ん坊のような失態を見せた。精神的な苦痛に体がキャパシティーオーバーを起こしたのは想像にかたくない。我ながらこのプライドの高さは厄介だと思いはするが、性分はそう簡単に変えようがなかった。
「歴史的に見て、日本の弁当というのは手づかみで食べるものが主流だった。箸を使って食べるような弁当のほうが歴史は浅い。昔ながらの弁当というのもいいものだろう」
月彦が機嫌を損ねたのを察したか、頭を撫でながら義勇が言う。変なところで大雑把だが、義勇は人をよく見ている。そんな義勇だが、無口で口下手なのがたたって、人に誤解されることも多いらしい。そういうときには炭治郎がフォローに回る。
自分の足りないところを補いあえるパートナーとして、ふたりは最良の関係なのだろう。同性同士ではあっても、ふたりの愛情は異性同士の夫婦となんら遜色はなく、仲睦まじさは月彦があきれ返るほどだ。
ともあれ、たかが箸ごときにふてくされるなどという、子供じみたところは見せたくない。うなずいた月彦に、ふたりはうれしそうに笑っていた。
残るお試し期間は、今日を入れて二日。時間にすれば二十四時間もない。明日には縁組を正式に進めるかを決定しなければならなかった。
炭治郎を陥れる材料など、なにひとつ得てはいない。いつも持っているICレコーダーの出番も、一度もなかった。
今日もきっと、録音スイッチを押すことなく、過ぎていくんだろう。なんとなく、そんな気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
車で向かったピクニックの行先は、エッフェル塔近くのシャン・ド・マルス公園だった。月彦を疲れさせないようにだろう、ふたりはゆっくりと歩く。疲れただろうとやたら抱きあげたがるのには閉口するが、気分は悪くなかった。
休日の広大な公園は、塔から少し離れるだけで観光客の姿はぐんと減る。辺りに見えるのは持参したランチを楽しむフランス人ばかりだ。
だが、月彦たちが注目を集めているのは、いかにもアジアンな三人連れだからというよりも、その容姿のせいだろう。
自分の容貌の愛らしさを承知している月彦はもちろんのこと、義勇も日本人としては体格もよくエキゾチックな美しい顔立ちをしている。炭治郎だって、義勇のような人目を引く美貌こそないものの、十二分に整って愛くるしい顔立ちをしているのだ。こんな三人連れが家族然と歩いていれば、チラチラと眺め見る者がいてもおかしくはない。
家族然ではなくなるのかもしれないのか。ふと思い、月彦は戸惑いを押し隠した。
真似事ではなく、実質的にも法的にも、家族になることは可能なのだ。月彦がそれを望みさえすれば。
もう炭治郎を陥れようという気は失せている。面憎い太陽のような男だけれど、炭治郎に打算などないことだけは、もはや疑いようがない。裏切られたくないというのは、信じたい気持ちの裏返しだ。好きだなどと思ってはやらないが、嫌いだと腹を立てるのも馬鹿馬鹿しいほどに、炭治郎の愛情には微塵も嘘を見つけられなかった。
義勇にいたっては、はなからそれなりに気に入っている。特に気に入りの瞳は、やはり見ていると気分がいい。義勇からの愛情もまた、炭治郎同様に、疑うべきものなどなにもなかった。
けれど、きっと自分は明日、迎えにきた教師に向かって言うだろう。
ごめんなさい、あの人たちとは暮らせません。と。
なぜふたりと暮らしたくないのか、その明確な理由を、月彦は言語化できずにいる。ふたりを見ていると胸の奥底から苛立ちとも焦燥とも言いがたいなにかがせり上がってきて、子供のように駄々をこねてしまいたくなった。
ふたりが月彦を見つめているときはいい。わけのわからない不安感は鳴りをひそめている。けれども、幸せそうに互いを見つめて微笑みあっている様を見ると、駄目だ。火がついたように癇性な喚き声をあげたくなる。
その感情にあえて名をつけるなら、それはきっと、悋気というのだろう。
嫉妬の感情の向く先は、義勇と炭治郎、どちらとも言えなかった。ふたりがそろって月彦をかまっているときには、決して襲ってはこないのに、ふたりの目に月彦が入っていないことを感じると、とたんにカッと導火線に火がつく。
もちろん、感情のままにわめいたりはしない。そんな子供じみた態度をとることは、月彦の矜持が許さなかった。
当然、自分でも理由のわからないそんな感情が、縁組を断る理由だなどと言えるわけもない。通りのいい、みなが納得する理由を考えねばならなかった。
芝生の上に座り込んで、炭治郎のお手製の弁当を広げる。
これはオニギリ、これはタマゴヤキと、炭治郎が一つひとつ説明する料理は、冷めきっているがどれもおいしそうに見えた。日々の食事をおいしそうだなどと思うことも、ふたりと暮らすまで、月彦はほとんど感じたことがなかった。月彦にとって食事とは、体を維持するための栄養補給でしかない。なのに炭治郎が作り、義勇と三人で食べる食事は、少しだけ楽しいような気がする。
おいしいかと笑いかけられ、いっぱい食べろよと微笑まれる。今までにも何度か経験しているやり取りだ。そのいずれも、善意の押し付け、自己満足と、小馬鹿にしてきたというのに、ふたりの眼差しの温かさの前では、そんな言葉は浮かんでこなくなった。
今日もそうだ。そしてまた、義勇の顔についた食べかすを取る炭治郎の姿や、炭治郎にうまいなと微笑みかける義勇の顔に、わめきだしそうになる。
「あれ? もういらないのか?」
「……今日は気分がいいから、少し歩いてくる」
おいしいと思っていたオニギリも、カラアゲも、なんだか砂を噛むような心地がしてきて、月彦は手を拭うと立ち上がった。
アパルトマンに来てから、ひとりになる時間は少なかった。考えをまとめるためにも少しふたりから離れたい。体調という意味でなら、気分がいいというのも嘘ではなかった。
最初こそ熱を出して寝込んだが、今はいつになく体調はよい。言霊とやらが効いているとは思わないが、一昨日よりも昨日のほうが、昨日よりも今日のほうが、わずかだけれども元気になってきているような気がする。
温泉の素だとかヘルシーな日本食だとかの効果など、微々たるものとさえ言えないだろう。特に役立っているはずもない。この厄介な体が、それしきのことで健康になるとは思えなかった。