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真昼の月のように

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 一緒に行くよと立ちあがろうとする炭治郎をねめつけ、赤ん坊じゃないと吐き捨てるように言えば、炭治郎は少し悲しそうな顔をした。義勇の眉もかすかに寄っている。チッと舌打ちしたいのをこらえて、月彦はサクサクと芝生を踏みしめて歩き出した。
 あまり遠くまで行くわけにはいかない。さすがに炭治郎か義勇がすっ飛んでくるだろう。それでも、ふたりの近くにいたくはなかった。

 気もそぞろに歩いていると、なにかが勢いよく肩にぶつかってきた。
 衝撃をこらえることもできずに尻もちをついた月彦と、ガシャンという音がしたのは、同時だった。
「おいっ、どうしてくれんだ!」
 大柄な男が月彦を見下ろし怒鳴りつけてくる。月彦の傍らには、赤く染まっていく紙袋が落ちていた。初めて会った日に、炭治郎がよこした蒸しパンが入っていた袋のような、どこにでもある紙袋だ。
「ワイン……?」
「プレミアムがついてる高級品だ。おまえがぶつかってきたせいで割れちまったじゃねぇか」
 とっさに思い浮かんだのは、芸のない詐欺行為だ。演技力も頭脳も必要としない当たり屋めいた手口である。
「すみません、弁償するにしてもワインを確かめさせていただいてもよろしいですか?」
「あぁ? ガキにわかるわけないだろっ。いいから親を呼んでこい!」
 本当に馬鹿というのは嫌になる。どうせ安物のワインだ。おそらくは偽造ラベルすら貼っていないに違いない。
 男の服装は清潔感もなく、まともな職に就いているとは思えなかった。とりあえず怒鳴りたてれば押し切れると踏んでの、杜撰な詐欺だ。こんなガラの悪い知性のかけらもない男に、高級なプレミアム付きのワインなど買えるとは思えない。袋だって店のロゴもなく、蚤の市辺りで商品を入れていたものだろうとすぐわかる。

「オラッ、さっさと立て!」
「月彦に触るなっ!」

 猫の子のように襟首を勢いよく持ち上げられた瞬間に、聞こえてきた声の主は、間違いようがなかった。
「タン、ジ、ロ」
 喉に食い込む襟が息をせき止める。苦しい。ようよう口に出せた声はかすれていた。
「月彦っ!」
 悲愴な声で叫んで伸ばしてきた炭治郎の手を避けるように、男が月彦を持ち上げている腕をブンと振る。息が、できない。チカチカと目の前に火花が散る。ヒュウッとか細い息が笛のような音を立てた。
「放せっ!」
「こいつが先に俺にぶつかってきたんだぜ? このガキ返してほしいんなら、そこのワイン弁償しな」
 金で済むならそれが一番いい。それぐらいさっさと出せ。以前の月彦ならすぐさまそう思っただろう。
「だ、め」
 だって、こいつは詐欺師だ。炭治郎と義勇は困窮しているわけではないけれど、特別裕福なわけでもない。ふたりとも働いているとはいえ、贅沢なんてしていない。スーパーで買い物するときだって、一所懸命吟味しているのを知っている。見ている。

 なんで、こんなに必死になっているのか。月彦だって、自分でも自分がわからない。だけど。

 矜持の問題だ。かすむ思考で月彦はそう思おうとした。自分が炭治郎たちに損失を与えるような真似は、プライドが許さない。自身の策略でならばともかく、こんな凡ミスでなんて、そんなの許せるものか。
 弱みを見せるなどごめんだ。弱点を握られるなど耐えられない。
 たしかにそう思ってもいる。けれど、それでも。

「俺の息子から薄汚い手を放せって言ってるんだ!」

 違うだろ。まだ。
 そんな言葉がちらりと浮かぶ。自身よりもはるかに大柄な男に殴りかかる炭治郎の姿を、視界の端に映して、月彦は、生理的な涙がにじむ目をギュッとつぶった。
 その瞬間に、体が空に放り出されたのを感じた。
「月彦っ!!」
 絶叫を耳に、空に浮いたコンマ数秒ほどの間、月彦は受け身を取れるだろうかと考えていた。落ちる先は芝生の上だ。固い地面よりはまだ衝撃は少ないだろうが、この脆弱な体にはきっと大打撃に違いない。

 骨折は、まだ経験したことがなかったな。 

 場違いにもそんな言葉が浮かんだのと、芝生ではありえない温かいなにかに、締めつけられるように包まれたのは、同時だった。
「いて……っ」
 耳元で聞こえた声に、目を開ける。恐る恐る顔をあげれば、炭治郎の顔があった。月彦を強く胸元に抱え込んで、ともに芝生に転がる炭治郎の頬には、大きな擦り傷ができていた。必死に飛びついたのだろう。月彦だけは傷つけまいと、受け身を取ることなどかけらも考えずに。
「なにが息子だ。このくそガキどもがっ」
 振り上げられた男の足が見えた。
「タンジロ!」
 蹴られる。炭治郎が。自分を抱きかかえているから、逃げられない。立ち上がるどころか、炭治郎はなおさら強く月彦を抱え込む。月彦だけはと言うように。

「いてぇっ!」

 かまえて待った衝撃は、やってこなかった。
 ドスンと音がして、地面がかすかに揺れる。
「俺のパートナーと息子に、なにをしようとした?」
 聞いているだけで凍りつきそうな声がして、炭治郎が顔をあげた。月彦も炭治郎の肩口に首を伸ばし見る。尻もちをついた男を睥睨していたのは、やっぱり義勇だった。けれどもとっさには、信じがたいような気がしてしまう。だって義勇のこんな冷たい声を、月彦は聞いたことがない。男を見下ろす眼差しも、凍てつくように冷ややかだ。
「義勇さん……」
「こ、こいつらが俺のワインを……」
「ワイン?」
 義勇の迫力に押されたか、男の声はだらしなく震えていた。男から視線を外すことなく無造作に身をかがめた義勇が、紙袋から覗く瓶をつかみ上げた。割れた瓶のラベルにさっと目を向け、冷えた声で言う。
「うちで煮込み料理に使ってる一番安いワインだな」
「だ、だからなんだってんだ! このガキがぶつかったせいで割れたのも、こいつが先に殴りかかろうとしたのも事実だぞ!」
 なにを勝手なことをと、カッと脳髄が焼けた。月彦が口を開くより早く、嘘よ! と女の怒鳴り声がひびく。
「見てたわ! その男がわざと坊やにぶつかったのよ!」
「そうだよっ、高級ワインだなんて嘘もついてたんだ!」
 男の剣幕に口をはさむことができなかったのだろう。目撃者はかなりいたらしい。ただでさえ月彦は衆目を集めやすい。怒鳴りつけたりしなければ、詐欺だと疑われることもなかっただろうに、男の杜撰さはこんなところにも表れている。つくづく、馬鹿は嫌だと言わざるを得ない。
「……だ、そうだが? 弁償するにしても、まずは警察を呼んでからにしようか」
 義勇の抑揚のない声は、男の怒鳴り声よりもよっぽど肝が冷える気がする。庇護される立場であるから安堵のほうが深いけれども、睨みつけられながら言われる男はたまったものではないだろう。
 慌てて立ちあがった男は、駆けだす前にふたたび地面に転がった。今度は、顔面から。
「おい、逃げるな」
 見れば炭治郎の手が男のデニムの裾をつかんでいる。
 月彦を抱きかかえたまま、いててと顔をしかめながら身を起こした炭治郎に、義勇の顔からようやく怒りの色が消えた。代わりに浮かぶのは明らかな危惧だ。
作品名:真昼の月のように 作家名:オバ/OBA