桜が謳うサンサーラ
どれほど大切な者が亡くなろうと、朝はくる。世界は変わることなくつづいてゆき、生者は生きつづけるために動かねばならない。
義勇の隣で禰豆子がふらりと立ちあがった。
義勇は動かない。温もりを失った炭治郎の手をにぎったまま、義勇は身じろぎすらせず、一心に炭治郎の顔を見つめていた。三年前の蝶屋敷でのように。
「冨岡さん……一緒にお兄ちゃんを弔ってくれますか? 母さんたちと同じところで眠ってもらおうと思います。私、ご住職を呼んできますから」
返事をしない義勇を、泣きはらした目をしながらも少し気遣わしく見やり、禰豆子はそっと家を出ていった。
足音が少しずつ遠ざかっていくのを、義勇は意識の片隅で聞いていた。
禰豆子の言葉は聞こえていた。けれどもまだ、頭が理解しない。無意識に考えることを拒否しているものか、義勇の思考は霞がかかっているかのようで、明確な意思を持って言語化するのをはばんでいる。
どれだけそうしていたのか、不意に義勇は不明瞭だった禰豆子の言葉を理解した。
そして、その瞬間に愕然とした。
葬儀を行うと禰豆子は言ったのか。炭治郎の? なぜ。炭治郎はここにいるじゃないか。
かつてのように優しく笑うことはないだろう。楽しげにおしゃべりする声を聞くこともないだろう。きらきらとした瞳が義勇を映し出すこともない。
けれど、ここにいるのだ。ちゃんと、義勇の目の前に。
なのに、燃やしたり土に埋めたりすれば、炭治郎が消えてしまう。
炭治郎はまた自分の手をすり抜け、守れなくなってしまう。
――――駄目だ。
駄目だ……。
駄目だ、駄目だっ、駄目だっ!!
そんなことが耐えられるものかっ!!
恐慌が義勇をおそった。耐えきれず炭治郎を引き上げかき抱く。
炭治郎の体にすでに温もりはなく、固くこわばりだしていた。
眠っているだけだと言わんばかりに安らかな顔をしているのに、その冷たさとこわばりが、炭治郎の肉体は死を迎えたのだと、義勇に伝える。
だがそれがなんだというのか。肉体は動かなくとも、炭治郎は炭治郎だ。
禰豆子は炭治郎を弔うと言う。母親や弟妹と同じ場所に埋めると言う。その前に燃やすのかもしれない。炭治郎の姿は変わらずここにあるというのに。
落ち葉のように燃やすと言うのなら。
ガラクタのように冷たい土に埋めると言うのなら。
それなら、俺がもらってしまってもかまわないじゃないか。
それは途方もなくよい考えだと思えた。
まもなく義勇も死を迎える。死んだ義勇は炭治郎とは別の場所に埋められ、二度とこんなふうにかき抱くことも、ともに眠ることもかなわない。
――嫌だ。嫌だっ。嫌だっ!!
やめてくれ。そんなこと許せるものか。そんなことをさせてたまるか。
離れてはいけなかったのだと、離れたのは間違いだったと、ようやく気がついたのだ。もう離れてなるものか。
どうする? どうしたら炭治郎と一緒にいられる?
――そうだ。このまま連れ去ってしまえばいい。
禰豆子ですらいらないと言うのなら、俺が、俺だけが、炭治郎を大切にしてやろう。大切に、大事に、慈しんでやるのだ。俺だけが。
到底まともな思考ではない。だがそれを義勇に告げ、いさめる者など、誰もここには存在しなかった。
ここにいるのは、炭治郎を心の底から欲し、今度こそ悔いることなくともにありたいと望む義勇だけである。
そうして、義勇は再び消えた。
住職を連れ禰豆子が戻ったとき、家のなかはもぬけの殻で、義勇の姿も、炭治郎の遺骸も、どこにも見当たらなかった。
残されていたのは、炭治郎の耳飾りと、枕もとに置かれた幾ばくかの金銭のみである。
消えていたのは、炭治郎の亡骸と、炭売りに使用していた背負子がひとつ。
周章する禰豆子は、けれども人手を集め捜索しようという住職の提案に、うなずくことをためらった。
義勇も炭治郎と同じく、命の刻限が近づいているはずだ。義勇の年齢を思えば、おそらくはもう長くはないのだろう。
……そうだ、それなら。
それならば、いっそ。
いっそこのままに。
そんな義勇への憐憫が、禰豆子に諾と示すことをためらわせた。
結果として禰豆子は住職の提案を受け入れたが、その逡巡が義勇の行方をたどる致命的な時間の損失となったのは否めない。
死期が近くとも、義勇は元柱だ。そのときにはまだ、生半(なまなか)なことでは人ひとり背負った義勇にすら、誰も追いつけなかったのだ。
集まった村の人々は、凶行に憤りながら懸命に探してくれたようだったが、やがて肩を落として帰ってきた。申し訳ないと一様に謝る人たちや、憤懣やるかたない風情の住職をとりなしつつ、禰豆子の胸にわいたのは安堵である。
そうだ、安堵していた。あぁ、よかった。兄はもう義勇と離れることはない。これからはずっと一緒にいられるのだと、禰豆子は心のどこかで祝福すらしていた。
けれど、後悔もまた、胸の奥ににわだかまってもいる。
もっと早く、迎えにきてくれたらよかったのに。いや、無理にでも自分が、逢いに行けと兄の背を押してやればよかったのか。
恋をしていたのだ、兄は。兄と義勇の間にあったのは、恋心であったはずだ。禰豆子の気のせいなどではない。誰もがそう思っていたことを、禰豆子は知っている。
なのにふたりとも、恋を実らせる気などまるでなかったことが、禰豆子には悔しくて、悲しくて、やりきれない。
わがままを言わない兄だった。なんでも我慢してしまう兄だった。
過去形なのが悲しい。我慢しないでと叱っても、困った顔で我慢なんてしてないよと笑うばかりの兄が、最後の最後で口にしたわがままが、かなえられたことがうれしくて、それでもやっぱり、悲しい。
義勇さんに、逢いたいなぁ……。
ささやかすぎるわがままを、炭治郎が口にしたのは、倒れる直前のこと。
いや、そんなものは禰豆子にしてみればわがままなどと言えない。当然の願いだ。だって炭治郎は恋していたのだから。
恋をしたら、逢いたくなるのだと思っていた。離れたくないと願うのだと、思っていた。相手のすべてが欲しいと欲張りになるし、誰にもわたしたくないと悋気もわく。
それが恋だと禰豆子は思っていたのだけれど、だとしたら、炭治郎と義勇の恋とは、なんだったのだろう。
相手の幸せばかりを祈り、自分のことはすべて二の次。嫉妬するどころか、炭治郎はいつも、義勇に似合いの相手が現れることを切望していた。優しくて綺麗な奥さんと、かわいい子どもに囲まれる義勇を語り、うれしそうに幸せだといいなぁと笑っていた。
幸せになりたいとは願わずに、幸せであれとばかり願う。
その理由が、禰豆子には、わからない。
それでもようやく、義勇は炭治郎の手をとった。やっと炭治郎は、義勇の胸に抱かれているだろう。
そうしてきっと、ともに眠るのだ。誰に邪魔されることなく、誰の目も気にせずに。
冷たくなった兄の布団へ目線をやった禰豆子は、不意に気づいた。
あぁ、義勇が残した金銭は背負子代かと。変なところで兄とあの人は似ているのだなぁと、ぽろりと落ちた涙はそのままに、禰豆子は小さく笑った。