桜が謳うサンサーラ
わんわんと飛びまわるハエだけがうっとうしいが、いずれ義勇の体も朽ち果てれば、一匹残らず飛び去るだろう。
そうすれば炭治郎とふたり、美しい光景だけを見つめて、安らかな永いときを過ごせる。
それだけを望んで、義勇は、炭治郎の頭蓋骨に頬ずりするように顔を寄せた。
「炭治郎……もうすぐだ。もうすぐ俺も逝く」
たとえようもなくうれしげにささやいて、義勇は満ち足りた心持で炭治郎に口づけた。
炭治郎が以前語った通りの、理想の場所を見つけられたのは、僥倖としか言いようがない。その点でも義勇はたいそう満足していた。
もしも鬼舞辻をたおしたあとまで生き延びることができたなら、死に場所は桜の木の下がいい。
そう炭治郎が笑ったのはいつだっただろうか。桜の季節にはまだ早いころだったように思う。
柱稽古のあとで、今日は外食ですませようかと、ふたりで川沿いの道を歩いていたときだったのはおぼえている。
あぁ、そうだ。あの日は月が綺麗だった。義勇は思い出した光景に、ゆるりと笑んだ。
義勇の稽古を受けるのは炭治郎だけで、その日もふたりきり、炭治郎がへとへとになるまで稽古をつけてやったのだった。
日は沈み、宵闇に月が清かに輝いていた。
飲食店のある往来へは、土手を行くのが最も早い。月明りをあびて流れる川の音を聞きながら、そぞろ歩く土手には染井吉野がずらりと植わっていた。
春になったらさぞや見事なことだろうと、まだつぼみもつけぬ桜の枝を見上げ、炭治郎は笑った。
こんな月夜に咲く桜は、きっと綺麗でしょうね。義勇さんと見られたらいいなぁと、とびきりの笑みで幸せそうに。
面映ゆさをごまかすように、義勇も天をあおぎ桜の枝越しの月を見た。
朧月夜に、まだ花の咲かぬ桜の枝を見上げて、ふたり歩く。
提灯など持ち歩くのも、どこか無粋な気がする夜だった。
そうだ。たしかそのときだ。
死に場所ならば桜の木の下がいいと、炭治郎がひそやかに笑ったのは。
まだ若い炭治郎が死に場所を語るのは、なにも知らぬ者が聞けば、さも滑稽に思えただろう。けれど義勇は、その言葉の重みをよくよく知っていた。
「……西行法師だな」
「誰ですか?」
「平安末期から鎌倉時代にかけての歌人で、僧侶だ。西行が詠んだ歌に、桜の木の下で死にたいというのがある」
「へぇ! やっぱり義勇さんは物知りですね! 俺は尋常小学校もちゃんと通いきれなかったから、そういったことはさっぱりで……どんな歌なんですか?」
笑いながら請われ、義勇は、炭治郎を見つめてそっと口を開いた。
願わくば 花の下にて春死なん
その如月の 望月のころ
「西行は実際に如月に亡くなったという。満月だったかは知らん。自死ではないらしいが」
「そうなんですか……その人がちょっとうらやましいです。死に場所や、ましていつ死ぬかなんて、望みどおりになるとは思えないから」
抱きしめたい。ひっそりとした笑みに、そう思った。
せめて、睦まじく手をつなぎたい。そう願った。
胸をつらぬいた衝動的な恋しさは、炭治郎に触れることを切望したが、義勇は我を抑えこんだ。
抱きしめ唇をうばうことも、義勇ならばたやすい。炭治郎もきっと拒みはしないだろう。
けれども刹那の衝動で、炭治郎の未来までうばうことなど、できるはずもなかった。
炭治郎の胸によぎったものも、おそらくは義勇と変わらないだろう。そして炭治郎もまた、己の欲をさらけ出すことはなかった。
互いに望むのは、相手の幸せだけだ。
恋は生涯ただ一度。実らせることなく胸の奥に眠らせて、ただひたすらに幸せであれと願う愛だけを、そっとささげあう。
だから義勇は――義勇と炭治郎は、それきりもう、その話はしなかった。愛しさのかぎりに抱きしめあうことも、仲睦まじく手をつなぐこともなかった。
ただの一度も。
ずっと心の片隅には、そのときの会話が残っていたのだろう。義勇が互いの人生の終焉として探し求めたのは、桜の木だった。
炭治郎の骨を抱きしめ見上げた大樹は、きっと炭治郎の望みにかなうだろう。
死んだそのとき、その場所は、桜の木の下とはいかなかったが、炭治郎は許してくれるだろうと思った。
これほどまでに見事な桜の木ならば、ここでずっと一緒に眠れるのなら、炭治郎はあのときのように幸せそうに、密やかな笑みを見せてくれるはずだ。
義勇はそう信じた。
義勇がこの木をおとずれてから、三日目の晩のことだった。
渇きをいやすことすらせず、獣を追い払う以外にはその場を動きもせずに炭治郎の骨だけを見つめていた義勇は、ようやっと自分の命にも終わりがきたことを悟った。
もう手足に力が入らない。目もかすんできた。あぁ、死ぬのだなと喜びすら感じて、義勇はひとつまばたきし、首に下げたふたつの守り袋に震える手で触れた。
そして。
唐突にそれはおそってきた。
違う。
違う、違うっ、違う!!
これは炭治郎じゃない――炭治郎の骨でしかない!!
突如として立ちあらわれた認識は、死にかけた義勇を恐慌状態へとおとしいれた。
炭治郎をかわいいと思っていた。愛らしいと見ほれることもあった。けれどもそれは、肉体や容貌が主ではない。
義勇が思慕し、どうか幸せにと切願したのは、炭治郎の存在そのものだ。炭治郎の心であり、命であり、魂の有りようそのものだった。
だが、それはもはやここにはない。炭治郎はもう、ここにはいない。それを義勇は突然理解した。
命が果てる間際になって、義勇は己の行動のあやまちに気がついてしまった。
自分はいったいなにをした? 炭治郎の亡骸を、あれだけ慈しみあっていた大切な妹からうばい、弔いさえさせてやらなかった。
そうして炭治郎をいたずらに腐らせ、人々の嫌悪の視線を浴びせかけた。炭治郎の明るさや 誠実さは、温かな好意を持たれるべきものだ。あんなあからさまな嫌忌を一心に受けるなど、けっしてあってはならなかったというのに。
炭治郎の心は、魂は、もうとうにここにはない。義勇をおいて逝ってしまった。義勇の手の届かない場所へ。
認めたくなかったのだ。耐えられなかったのだ。また自分は守れなかったのだと、突きつけられるのが怖かった。
生きて幸せだと笑ってくれていると思えば、二目と逢わぬことすら心から喜べた。けれど、炭治郎がもうどこにもいないなど、到底耐えられるものではない。
ここにいると思いたかった。欺瞞だ。己の未熟さが、弱さが、炭治郎の尊厳をはずかしめた。
泣きたかった。泣きわめき、狂ってしまいたかった。けれども死に直面した義勇の意識は、絶望のなかでも悲しいほどに明瞭で、罪を義勇へと突きつける。
義勇の罪は、炭治郎への愚行だけにとどまらない。
禰豆子は兄の亡骸をうばわれ、どれだけ悲しんだことだろう。それでもあの心優しい娘は、義勇を許したのだ。
でなければ弱った自分がここまでこられるわけがない。産屋敷家を頼れば、官憲なぞより優秀な追手はいくらでもいるのだから。