桜が謳うサンサーラ
大きな山桜の根元に転がる遺体に、虫たちがカサカサと落ち葉をかき分け這い寄りむらがった。烏が舞い降り、肌をつつき肉を食み、うごめくウジをついばむ。獣がやってきて、ただの肉のかたまりとなった体を食いちぎり、持ち去った。
それは肉体が腐敗するまでつづいた。
周囲を満たす悪臭を洗い流すように雨が降り、風が吹き、炭治郎の骨と義勇の肉体を、刻々と風化させていく。
やがて山に冬がきた。雪が降り、獣や鳥によってバラバラになった骨をおおいつくした。
そうして季節はまた移ろい、春がおとずれた。
桜の木が満開の花を咲かせる時期である。
その山桜の花は、ごくごく淡い紅紫色(こうししょく)をしていた。個体変化の多い種ゆえに、特段の目新しさのない色味ではある。
若葉の赤紫色にくらべれば、白と言っていいほどに淡い色合いであった。
桜の花びらは静かに散る。風が吹くたび、はらりはらりと舞い落ちる。根元に取り残され風化した、ふたつの頭蓋骨の上にも、静かに花びらは降りそそいだ。
風のしわざか、はたまた獣が転がしでもしたか。ふたつの髑髏(されこうべ)は、ピタリと寄り添いあっていた。
白い雪にも見える淡紅紫色の花弁は、はらり、ひらりと、たわむれるように舞い落ちては、髑髏たちを飾りたてる。
そこここで鳥のさえずりが聞こえる。獣が番を求めて鳴く声がする。春は命が息吹く季節であった。命を失ったふたつの骨にはもう届かぬ春の音が、山にはひびいていた。
やがて花がすっかり散って、青々とした葉がしげる夏がおとずれたころ。一匹の子ダヌキが桜のもとにあらわれた。
親離れしたばかりなのか、成体にくらべればまだ小さい。顔にもどことなくあどけなさが残っているタヌキである。
ふんふんと黒い鼻をうごめかせながら、小さなタヌキは桜の根元にやってきた。
タヌキは転がる骨にほてほてと近づくと、つんと鼻先で頭蓋骨のひとつをつついた。
つんつんとしきりにつついては、なにも起こらぬ骨にあきらめたのか、子ダヌキはその場にしゃがみ込んだ。
きゅうきゅうと天を仰いで、タヌキは鳴く。そうしてそのまま、しばらくのあいだそこを動かなかった。
タヌキは転がる髑髏の傍らを、己の居場所と定めたようだった。
雨が降れば桜の洞(うろ)に体をすべり込ませ、晴れていれば髑髏に寄り添うように眠る。
近くには放置されたままの桶もあったが、腐臭が染みつきどうにも使いようがなかったらしい。
時折餌を求めて出歩くが、タヌキは必ず桜の木の下に帰ってきた。そうして動かぬ髑髏をつんとつついてまた眠る。
毎日そんなことを繰り返すうち、秋がおとずれ、冬がやってきた。
タヌキはすっかりと成熟し、大人のタヌキになっていた。
転がる骨を雪がおおい隠すと、タヌキはきゅうきゅうと鳴いて雪を掘ったが、やがてキリがないことを悟ったか、その上に座り込むようになった。
山の冬は厳しい。積もる雪は深く、餌をとることもままならない。
餌を求めて歩きまわる時間は増えたが、それでもタヌキは必ず桜の木の下へと帰ってきた。
タヌキはただの獣であるから、言語化した思考を持ち得ない。なぜ己がこの場所に、ただの骨に執着しているのかなど、タヌキ自身にもあずかり知らぬところである。
悲しいだとか恋しいという感情すら、タヌキは理解していなかっただろう。けれどもタヌキは希求するのだ。この骨の在処(ありか)が我が身の在処と。
成体となったタヌキの耳に、番となるべきメスの泣き声が聞こえてくる。だがタヌキは本能に逆らいその場を動かなかった。
体は鳴き声のもとへと行きたがったが、それでもタヌキは、本能よりも骨への執着をえらびとった。
本能よりも強い切望の源を、タヌキは知らない。人のような思考を持たないタヌキにとって、理由など知ったところで意味はなかった。
ただ、生まれ落ちた瞬間から、これは定められたことなのだと、タヌキの脳ではなく魂が知っていた。
己のいるべき場所はここであるとの、本能を凌駕する魂のうったえに、タヌキは粛々としてしたがったのみである。
いよいよ餌がなくなってくると、タヌキは頻繁に山犬や鷹におそわれるようになった。
どうにか逃げのびては、ボロボロになった体でタヌキはよろよろと桜の下に帰ってくる。
タヌキ自身も餌を得られぬのだから、体は弱るばかりである。
人里におりれば冬を越すだけの餌も得られよう。少なくとも、この木の――雪の下にある髑髏のもとを離れれば、生き延びるために必要なだけの餌をとることは、可能なはずだった。
だがタヌキは動かなかった。
弱った体にさらに雪が降りそそぎ、タヌキの茶色い毛をおおいつくしても、タヌキはこの場を離れ生き延びるという本能にしたがうことはなく、やがて短い生を静かに終えた。
春がまた巡りきた。雪がゆっくりと解けていき、凍ったタヌキの体を春の陽射しがつつむ。
ゆるゆると解けていく遺骸の下から、雪に洗われて白い人骨がふたつあらわれた。
タヌキの体は、そのうちのひとつにおおいかぶさるようであった。
しばらく経ち、やがて桜の木の周りの雪がまばらに残るだけになると、大きな白い鳥が一羽、その地に羽ばたき降りてきた。
真白いその鳥は鷺であった。若いオスの白鷺――人がつけた名称で呼ぶならば、大鷺と呼ばれる鳥である。
鷺は虫や獣に食われ原型をとどめぬタヌキの遺骸を、しきりとつついては、叫びのような鳴き声を上げた。
天を仰ぎ、鷺は鳴く。鷺の語源は『さわぎ』という説もあるが、その鳴き声はさわぐというよりも、哀惜の悲鳴に似ていた。
鷺は桜の下で一昼夜鳴きつづけた。
時折覚醒をうながそうとでもするものか、タヌキの肉を鷺はそっとつつく。けしてその肉をついばむことはない。
けれども当然タヌキの躯(むくろ)が動くことはなく、鷺はただただ鳴きつづけたのだった。
鷺という鳥は、水田などの水域に集団で営巣する習性を持つ。だがその若い鷺は、夜が明けてもただ一羽で、山奥の桜の木のもとにとどまりつづけた。
本能はこの場を去れとしきりに鷺をうながしたが、若い鷺はけしてその場を離れようとはしない。
そこに立ちつくしたまま、鷺は時折タヌキの腐肉にむらがる虫をついばむ。雪客(せっかく)の異名にふさわしい真白い羽は、日が経つにつれだんだん薄汚れ、灰色がかっていった。
水鳥であるにもかかわらず、鷺は山間の桜の木の下から飛びたつ気配がない。ときに耐えきれぬような風情で天を仰ぎ鳴いたが、そこに鷺の感情はなかっただろう。
鷺はただの鳥であるから、人のように悲しみはしない。
なぜ餌もとれぬこの場から飛びたてぬのか。
なぜ番を求め集団のなかへと戻らぬのか。
鷺にはわからない。考えたこともない。
言語を介さぬ思考は単純で、本能にしたがい体は動くはずなのに、鷺はすべての本能に逆らいつづけた。
生きる。繁殖する。突き詰めればそれだけの、けれども生き物にとってあらがいがたいそんな本能ですら、鷺をしたがわせることはできなかった。
鷺が求め欲するのは、ただひとつ。この場に――タヌキの躯のもとにとどまることだけであった。