桜が謳うサンサーラ
なぜ己がそんな行動をとるのかすら、鷺自身にすら理解はおよばなかっただろう。理由を求めるような複雑な思考は鷺にはない。
理由も理屈も知らぬままに、それでも鷺は求めるのだ。本能ではなく、思考でもなく、魂が欲するままに。
恋しいとか悲しいだとか、そんな感情すら持ち得ぬままに、鷺は天を仰いで声をあげる。
若い鷺は、ハクビシンやほかのタヌキなどが肉を求めてやってくるのを、羽を広げ大きく鳴いて威嚇し、追い払う。鷺自身がおそわれることもままあったが、鷺は逃げることなくその場にとどまり、タヌキの遺骸を守るように戦いつづけた。
鷺は腐肉にむらがる虫をついばみ食む。そうして命のかぎり、タヌキが骨になっていくのをただ見ていた。
やがてタヌキの体は、すっかり肉を失った。
タヌキの皮が、しがみつくようにぺたりと人の髑髏に張りつき、小さな骨がカラカラと地面に転がるばかりになったころ、鷺にも死がおとずれた。
鷺がそれをどう受けとめたかなど、知りようもない。
安堵なのか歓喜だったのか、それとも絶望だったのか。鷺にはそんな人の定めた感情など、ひとつも浮かぶ余地などなかったかもしれない。
黒々とした瞳から光が消えていく。命の火が消える。
けれども、すっかり力を失いだらりと地面に横たわった鷺は、最期のときにたしかに見た。まるで太陽から飛んでくるかのように、まっすぐ鷺に向かって飛ぶ小さな虫を。
光を失いきる寸前に鷺の瞳に映ったちっぽけな虫は、迷うことなく鷺のくちばしへととまった。
そこで終わりを告げた鷺の肉体には、もう魂はのこされてはいない。はたして最期のそのときに、鷺がなにを感じとったのかを、知る者はどこにもいなかった。
ブルブルと痙攣した鷺の体が、ビシリと音がしそうなほどに硬直しだした。ピンと足が伸び、くちばしは大きく開きわななく。
それきりだった。それきり若い鷺の命はつきた。
命の終わりを告げるその様子が、小さな小さな虫に見えるはずもない。
赤い小さな甲虫は、動いたくちばしにしっかりとつかまり、はらわれぬようにするばかりである。
鷺の色あせた黄色いくちばしの上で、ポツンと鮮やかにうごめく赤。それは一匹のテントウムシだった。
カサカサとテントウムシは鷺の体を這いまわる。山の早春は寒い。春の虫であるテントウムシにとっては、まだまだ活動時期には早かった。
テントウムシは、草の根元などに数匹で固まりあい、越冬する習性を持つ。そのテントウムシも、本来ならば今はまだ、仲間と身を寄せあい、生きるためにできうるかぎり動かぬようにしているはずだった。
けれどもそのテントウムシは、まるで本能に逆らい探し求めてきたのだと言わんばかりに、鷺から離れなかった。
仲間ではなく、テントウムシの目にはただの大きな塊にしか見えぬであろう鷺にこそ、寄り添いたいのだとでも言うように。
そんなわけはない。人がこの様子を伝え聞いたのなら、ひとり残らずそう答えるだろう。
虫に感情などあるわけもなく、よしんば感情らしきものがあったとしても、なぜテントウムシが餌としてついばまれかねない鳥なぞを探し、そばにいようとするのだと、失笑するに違いなかった。
だが、テントウムシはたしかに、この鷺の遺体を求めているようであった。
鷺の体にはすぐにハエがたかり、卵を産みつけていった。ウジがわき、シデムシやアリが羽をかき分け肉を噛み千切っていく。
白い羽は土や流れる体液でむごいほど汚れ、ボロボロと抜け落ちていった。
小さなテントウムシには、鷺のそんなむごい有り様さまは見えない。テントウムシの狭い視野では、鷺の体のすべてを目に映すこともできなかった。
テントウムシはただひたすらに、鷺の遺骸にしがみついているばかりだ。
時々テントウムシは鷺の体を歩きまわる。それは、どこかに命が残っていないかと、探るような動きであった。
けれども鷺の命はとうにそこにはなく、あるのはわき出るウジやら、逃げ出そうとするマダニ、うぞうぞとむらがるアリばかりだ。
テントウムシの餌となるものなど、なにひとつそこにはない。
植物の葉につくアブラムシやハダニを餌とするテントウムシにとって、鷺の体についていたところで、命をつなぐ糧は得られない。けれどもそのテントウムシは、かたくなに鷺の体にとどまりつづけた。
鷺の肉やウジを求めて烏がむらがる。毒を発するテントウムシを食らう烏はいなかったが、餌をとれぬのならば、テントウムシに死が近づいてくることに変わりはなかった。
テントウムシは刻一刻と弱っていく。鷺の体に残るわずかな羽の下に身を寄せて、テントウムシは眠った。アリがテントウムシも餌にしようと寄ってくるたび、もぞもぞと移動するが、一向に飛び立つ気配はなかった。
羽が抜け落ちるたび、テントウムシはまた鷺の体によじ登る。そうして再び羽根の下で眠りにつく。その繰り返しだった。
獣がやってきて、鷺の肉を噛み千切っていくこともあった。
テントウムシにとっては、そんなことどもも理解のおよばぬところである。大きな影が落ちて鷺の体がゆれるから、しっかりと羽にしがみつく。ただそれだけの出来事であった。
テントウムシはただそこにいた。食い散らかされ、腐り落ちていく鷺の体に、そっと寄り添うようにそこにいる。テントウムシはそれだけの存在となっていた。
生存するために餌をとり、種を残すために繁殖するという、生命としての使命すら、そのテントウムシは果たす様子がない。
本能のみに生きる小さな虫だ。感情も思考も持ちあわせぬ、ちっぽけな虫である。もしもなにがしかの思考を持っていたとしても、そのテントウムシ自身、己の行動を理解などできなかっただろう。
理由などわからぬまま、テントウムシはそこにいつづける。もうとうに死んだ鷺とともにあることが、己の命の意味だとでもいうように、テントウムシはその場から離れなかった。
テントウムシにはなにもわからない。
本能を凌駕する鷺への執着が、いずこからくるものなのかも、鷺の遺骸の近くに散らばる小さな獣の骨や、ふたつの人の頭蓋骨の意味など、テントウムシに理解できることなどひとつもなかった。
ときを待たずにやってくるだろう自分の死すら、きっとテントウムシが解することはないだろう。小さな小さなテントウムシのなかにあるものは、きっと、ただひとつの欲求だけであった。
そばに。ただそばに。二度とけして離れぬように。
ひたすらそれだけを、テントウムシは願っていたに違いなかった。
無論、小さな甲虫でしかないテントウムシに、そんな明瞭な思考などありはしない。
それは脳での思索ではなく、魂の希求と呼んでも差し支えないだろう。
ちっぽけな魂に宿る、大いなる嘆願が、テントウムシをそこにとどまらせていた。
けれども、そんな願いに応えるものは、ここにはない。あるのは命の抜け殻ばかりである。
テントウムシが真に求めるものは、いったいなんなのか。テントウムシ自身も理解などしてはいないし、沈吟(ちんぎん)することもない。
もしも。