桜が謳うサンサーラ
もしも鷺の命がつきたその瞬間に、テントウムシもまた、死を迎えていたのなら。テントウムシはその名のとおりに、鷺の魂をつれ、お天道様に向かって飛んだだろう。
魂に形があるのなら、手をとりあい仲睦まじく、光のなかへと飛んでいけただろう。
けれども鷺はテントウムシをおいて逝ってしまった。
死という概念すら持たぬ虫であるから、それを無念ととらえることも、嘆き悲しむことも、テントウムシはしない。
それでもテントウムシの魂は泣いていた。ただただ悲しいと、泣いていた。
そばに。どうかそばにいて。二度と離れはしないから、いついつまでも、ともにいてと。
それは判然たる形を持たぬ欲求である。言語を解さぬ虫でしかないテントウムシにとっては、願いや祈りといった認識すらない。
それでもテントウムシはたしかに願っていた。願い、求めている。
テントウムシはなにもおぼえてなどいない。魂の奥底に残る愛しさの所以(ゆえん)など。魂の片割れと呼ぶべき存在のことなど、なにひとつ、おぼえてはいなかった。
けれども願っていた。思考という形で明確化はされずとも、魂が求める存在にふたたび出逢い、寄り添いあうことを。
ちっぽけな虫のなかにある魂が、強くいだきつづける嘆願は、今生も果たされることなく、魂はまた、この世を去った。
幾度か魂が旅立つのを見送ったその地には、変わることなく季節が巡っていた。
すっかり朽ち果てた鷺も、影も形もなくなったテントウムシも、山の生き物たちや桜の木にとっては、てんであずかり知らぬところである。
桜の木の下に残る野晒(のざらし)も、獣や鳥にとっては木の根となんら変わらない。物言わぬただの物体である。
桜が咲くのを待たずに死んだ鷺の躯が朽ちて、汚らしい羽根の残骸がいくらか散らばるばかりになった地面を、昨年よりもわずかに色味を深めた花弁がおおった。
それもあまさず風に飛ばされたり土に還ったりしたあとには、セミがやかましく騒ぎたて、鳥たちは枝に巣をつくりさえずり、桜の木はたいそうにぎやかになった。
季節は移ろう。人の営みも、獣の生き死にも、なにひとつ知らぬ顔で、おとずれては去っていく。
桜の木は、ただそこに立っていた。四季に応じた姿を見せ、ただそこにあった。
薄汚れて弱った様子のキツネが一匹、桜の木の下へとやってきたのは、秋も深まるころだった。
キツネの生まれは、その山よりもずっと以北であった。
生態に詳しい者が見れば、目を見張っただろう。キツネは本州にはいないはずのキタキツネであった。
まだ若いオスのキツネである。オスであるからには、家族群を離れ己の縄張りを求めるのは当然のことだ。だとしても、海をわたってキツネが移動するなど、信じるものは少なかろう。
けれどもたしかにそのキツネは、海をわたり、ただ一匹で関東までやってきたものと思われた。
どれだけ餌を食べていないのだろう。あわれなほどにやせ細り、肉の薄い体は骨が浮いて見えた。毛艶もこの上なく悪い。
病気ではなさそうだが、とにかく弱りきっている。おそらくは、海を越えたあとにも里を行けば人に追われ、山野を駆ければ熊やら山犬におそわれて、ようようここにたどり着いたものとみえる。
キツネは転がる髑髏のそばへ、よろよろと歩み寄った。
ふんふんと辺りをしきりと嗅ぎまわり、落ち葉をかき分けては、ひっきりなしに地面を掘り返す。
そっと土をひっかいては、這い出て逃げる虫をじっと見すえ、キツネはまたそれを繰り返した。
キツネは明らかになにかを探していた。
威風堂々たる大樹である桜が落とす枯葉は多く、キツネがいくら落ち葉をかき分けても、新しい葉はどんどんと落ちてくる。
キツネは転がるふたつの髑髏も転がしどけた。虫がわっと逃げ散っていったが、キツネの求めるものではないようだった。
キツネは朽ちかけた桶もどうにか転がし、下をうかがったが、やはりなにも得るものはなかった。
日が暮れ、また日が昇っても、キツネは眠りもしない。餌どころか、水すらろくに飲んではいないのだろう。ハァハァと苦しげにしながらも、キツネは休むことなくなにかを探していた。
弱り切った体で、いったいなにをそんなに探し求めているのか。もしかしたら、キツネにもわかっていなかったかもしれない。
母キツネの乳を吸い、ほかの子ギツネたちと転がりまわっていたころから、キツネは不意に虚空に目を向け、ふんふんと鼻を鳴らすことがあった。
なにを探しているのかは、キツネ自身にもわからない。けれども、たしかにキツネはなにかを探していた。
不可思議な欲求は、親離れを果たすころにはいよいよ大きく抑えがたくなり、キツネは生まれた地をあとにした。
若いオスのことであるから、北海道を駆け抜けるうちは体力もみなぎっていたが、海をわたるのは困難を極めた。
それでも、キツネはおそらく幸運だったのだろう。キツネがひたすら波をかき分け、人が津軽海峡と呼ぶ海域を泳ぎきったのは、そのあいだずっと海が凪いでいたゆえであるのは、間違いがない。
サメやクラゲといった、危険な海洋生物にもおびやかされることなく泳ぎきったキツネは、目に見えぬなにかに守られてでもいるかのようだった。
けれど、それも海をわたりきるまでのことである。
体力をうばわれ、ハァハァと荒い息をもらしたキツネは、ようやっとたどり着いた陸に、ごろりと横になった。弱ったキツネを、海鳥やトンビが狙ったのは、致し方ない。自然とはそういうものだ。
弱ったものから狙われる。弱い個体はほかの命の糧となり、命をつないでいく。それが自然の摂理だ。
だがそのキツネは、つつかれ爪でえぐられて血を流した体で、それでも立ち上がった。
まだ魂の希求は消えてはおらず、探し求めるなにかにたどり着いていないことを、キツネは悟っていた。
生きるのだ。まだ死ねない。そんな明確な意思はそこにはない。動物の本能と言いきるには、キツネの瞳には決意があった。本能のうったえからの生存欲ではない『執着』がそこにはある。
もしも魂に確固たる意志があるのならば、それは確実に、魂が追い求めよと命じているに違いなかった。
生きろ。生きろ。探しだせ。言語化されることのない渇きに似た熱願だけが、キツネを突き動かす。
キツネはよろける足で駆けだした。なにかに導かれるように、ただ駆ける。
ときどき餌を求め狩りをするあいだも、熊や人に狙われ追われるあいだも、求めるものはひとつきりで、それがなんなのかすらわからないまま、キツネは駆けつづけた。
そうしてたどり着いたのが、この桜の木であった。
キツネは餌もとらず、三日三晩と一心に落ち葉をかき分けていたが、やがてキャウゥ、ウィルルルとか細く鳴き、なにかに呼びかけた。けれども呼び声に応えるものはない。
悲鳴に似たその鳴き声は、細く高く、周囲にひびきわたった。
鳴き声を恐れたか、小鳥が一斉に羽ばたき飛び去る。落ち葉がキツネに降りそそいだ。ただそれだけだった。キツネの呼びかけに応じてあらわれるものなど、なにもない。
生きろと命じる声はもう聞こえない。深い渇望は生存本能を凌駕して、キツネを打ちのめす。