桜が謳うサンサーラ
キツネが求めるものはもはやここにはない。キツネもそれは理解していただろう。しかしキツネは動かなかった。理由はキツネにもわからない。キツネにそれほど複雑な思考はなかった。
もしキツネが人のように言語化された思考を持ち得たのなら、きっと死期の近づいたこのキツネは、悲痛に叫んでいただろう。
まだ足りないか。まだ罪はぬぐえぬのか。己が片割れと出逢うことは、まだ許されないのかと……キツネは、泣きながら、叫んでいた。
その身はそろそろ命数がつきる。若い肉体は酷使に次ぐ酷使に耐えきれず、もはや座っているだけの力すら失っていた。餌をとる間も惜しみ、生存本能に逆らいつづけたツケがまわってきていた。
キツネはどうっと地面にたおれた。
だらりと舌を垂らして、ハァハァと荒い息をつく。動けと本能と魂の意思がそろってキツネをうながすが、命の火が消える瞬間は目前に迫っていた。
されどキツネの瞳には、いまだ切願の光がある。
あきらめてしまえば楽だろう。安らかな眠りにつき、生まれ変わり、その生に見合った生き方をすれば、いつかは魂も安らぎ、すべて忘れていくのだろう。
だがそんな日は、けしておとずれはしないことを、キツネの魂は知っていた。
探し求めるたったひとつの魂が、己の魂の片割れが、いったいどのようなものなのかは、とうに記憶も薄れ忘れ果て、かけらもおぼえてはいない。
それでもなおキツネの魂は求めるのだ。
求め、探し、あがくのだ。
そばに。ただそばに。二度とけして離れぬようにと。
そのゆるぎないうったえだけが、魂のよりどころであると言わんばかりに、ただそれだけを追い求め、生まれては死んでいく。
繰り返し、繰り返し、魂は片割れを求めて生まれ落ちては、渇望のなかで探し求め、果たされぬまま死んでいく。
そうしてまたひとつ、魂は生を終えた。
ピクリとも動かなくなったキツネの姿を、ひらり、はらりと落ちる桜の葉が、赤く染めていった。
その桜の木は、ずぅっと昔からそこにあった。
樹齢はそろそろ二百年を超える。そのあいだ、様々なことが起きた。江戸と呼ばれていた街はすっかりと姿を変え、今では 東京と呼ばれているらしい。
人の世は有為転変をつづけ、大地震や空さえも焼く大きな戦は、帝都を焼きつくしたという。
けれども人はしぶとく立ち直り、数を続々と増やしていった。今や桜の木が立つこの山も人の手が入り、桜の木の周囲はならされ、時折人がおとずれては、桜の木を見上げて感嘆の声をあげる。
人の数に反比例するかのように、獣は数を減らしていった。今では野ウサギやイタチなどは、とんと見かけることがない。
それを悲しいと思う感情は、桜にはなかった。
桜は大樹であり年を重ねてはいるが、しょせんはただの樹木である。明確な意思も感情も持ちあわせない。
けれども不明瞭なイメージとしてならば、記憶と呼ばれるものは持っていた。
それはもしかしたら、桜の木自身の記憶ではないかもしれない。その地で繰り返された邂逅を果たせぬ命の――あわれな魂たちの残した足跡が、桜の木に染みついているだけかもしれなかった。
桜は見てきた。数え切れぬほど繰り返された、命のすれ違いを。
ときには獣に、ときには鳥に、またあるときには虫となって、輪廻を巡りこの地をおとずれては、果てる命がある。触れあうことなくすれ違い、それでもまた繰り返す命の終焉を、物言わぬ桜はただ見てきた。
大地がゆれても、戦火が空を赤く染めても、ふたつの魂は決まって桜のもとをおとずれ、この場で果てる。
そうして四季は巡り、この十数年ばかりは新たにあの魂たちがやってくることはなかった。
桜の木がもしも考察するだけの知能や感情を持っていたのなら、こんなふうに考えたかもしれない。
あのあわれな魂たちも、ようやく諦めたのだろう、と。
巡り逢うことをあきらめ、それぞれの生を謳歌しているのなら、それはそれで喜ばしいことだと、老爺のようにしんみりと感慨にふけることもあったかもしれない。
だが、魂たちはよっぽどあきらめが悪かったに違いない。
桜の木がそれを見たのは、淡い紅紫色の花を繚乱と咲かせる春のことだった。