桜が謳うサンサーラ
とはいえ、人がいないのであれば目的が果たされることもないのはたしかだ。義勇はどうしようもなく心にわきおこる落胆に、肩を落としてうつむいた。
逢えない。また逢えない。まだ、逢えないのか。
言いようのない悲傷(ひしょう)は、涙になって義勇の目に浮かび上がった。
桜の木を目にして、義勇ははっきりと悟っていた。
なぜなのかは、理由も理屈もわからない。けれど、わかる。きっと自分は、ずっとこの木の下で誰かを探していたのだと。
繰り返し、繰り返し、探し求めては果たされずにいたのだと、義勇は理解した。
叫びたかった。天を仰いで声のかぎりに叫んでしまいたかった。
逢いたい、触れたい――恋しいと叫び、呼びたかった。
誰を? わからない。顔も名も知らない誰か。
性別もわからない。年も知らない。記憶のどこを探っても、求めてやまぬ誰かの顔も、名前も、思い出せはしなかった。
もしかしたら、人ですらないのかもしれない。
連綿とつづく命のつらなりのなかで、いつか出逢った名も知らぬ誰か。その誰かが、もしも今生では人ではなかったとしたら。
――それでもいい。人でなくてもかまわない。
野の獣でも、鳥でも、たとえば虫であったとしても、自分は恋し愛をそそぐだろう。
今ここに義勇がいること。この世界、この時代に、生まれ落ちたこと。そのすべてはきっと、求める命に……己の魂の片割れに出逢うためだ。
姿かたちなどどうでもいい。義勇の魂が求めるのは、もうひとつの魂そのものに違いないのだ。
寄り添いあえと、出逢い、そして『今度こそ』放すなと、魂が叫んでいる。
だからもう、逢わせてくれ。触れさせてくれ。
守りたいんだ。幸せにしたいんだ。
今度こそ間違えない。離れない。放さない。絶対に。
誓うから。自分のすべてを賭けて誓うから。どうか。
なぜそんな言葉が浮かぶのかすらわからないまま、義勇はわきあがる慟哭を抑えこんだ。
じきに錆兎と真菰もやってくる。ふたりを心配させるわけにはいかない。
海のものとも山のものともつかぬ義勇の直感だけで、こんなところまでつきあわせた。これ以上ふたりに迷惑をかけるのは、義勇の性分が許せなかった。
ふたりは迷惑だなどと思わないだろう。けれど心配させてしまうのは間違いがない。
必死に涙をこらえて、ぐっと目を閉じた義勇の耳に、突然それは聞えてきた。
「あのっ、誰かいますかぁ!」
まだ幼さが残る男の子の声だ。声は窮(きゅう)したひびきをしている。
耳を澄ませよくよく聞けば、義勇が登ってきた山道とは離れた場所から、その声は聞えてくるようだ。
なにか困っているのならば、手を貸さなければと、義勇はひとつ大きく深呼吸した。涙をぬぐい、心を落ち着かせると、声のしたほうに向かって足を進める。
「どうした! どこにいる?」
とりあえず人がいることを知らせようとあげた声に、まだ姿の見えない相手は、喜びと安堵を隠さぬ声で答えた。
「よかった! あのっ、道に迷っちゃって、ここからじゃ斜面が登れないんです!」
こんな山で迷って、あげくに斜面が登れない?
それは遭難しかけているというんじゃないのか。義勇は少しあきれ、おおいにあわてた。
急いで駆けつけ斜面をのぞき込めば、木々の合間に男の子がひとりで立っている。足場が悪いせいか、少年は木にしがみつき、上を見上げていた。
背格好からすると義勇と同い年ぐらいだろうか。深くかぶったキャップや木々の枝で、顔はよく見えなかった。
「怪我は? ロープがあればひとりで登れるか?」
「大丈夫だと思う!」
答えによしとうなずいて、義勇は背負っていたデイバッグをおろすと、ナイロンロープを取りだした。
標高の高い本格的な登山じゃあるまいし、それはどうなんだと錆兎たちにはあきれられたが、念のためと持ってきておいてよかった。
目測からすると長さはたぶん足りるはずだが、さて、問題はあの子がひとりでロープを伝い登ることができるかだ。
とにかくやってみるしかないかと、義勇は斜面にせり出した木の幹に、ロープをしっかりと結んだ。
念には念を入れよと、すべり止めつきの軍手をロープの端にくくりつけ、斜面の先にいる少年へと投げる。
「その手袋をはめてからこい! 直接ロープをにぎると手の皮がむけるかもしれないから!」
「わかった! ありがとう!」
義勇に言われたとおりに軍手をはめた少年は、ぐっぐっと二、三度ロープを引いてたしかめると、ゆっくり斜面を登り始めた。
斜面は日が差しにくいのか、苔やぬれた落ち葉ですべりやすいようで、少年の進みは遅い。何度か足をすべらせかけては、そのたびに、わっと声を上げるから、義勇も気が気ではない。
軍手はひとつしか持ってきていないが、しかたない。
次に山に登る機会があるなら、今度は予備も持ってこようと胸に誓いつつ、義勇はロープを強くにぎりしめるとぐいっと引いた。
「こっちでも引っ張るから、根性で登れ!」
「う、うん。がんばるっ! ありがとうございます!」
ロープをたぐり寄せるたび、手のひらに食い込んだロープが痛みを与えてくるが、かまっている場合ではない。額に汗をにじませて、義勇は懸命にロープを引いた。
錆兎が来てくれれば少しは楽になるだろうが、かなり引き離してしまった気がする。真菰と一緒の錆兎が山頂に着くには、きっともうしばらくかかるだろう。
まったく、こんな山で遭難しかけるなんて、あきれるほどドジなやつだ。登ってきたらじっくり間抜け面をおがんでやるからなと、義勇は必死にロープを引きつづけた。
絶望に似た悲嘆は消えていた。それだけは少年に感謝してもいい。こらえようとしてもわき上がってくる涙を、とめてくれたのだから。
やるべきことがあるなら、義勇は動ける。どんなに傷心にくれても、自分がなすべきことはなす。それが義勇の本質だ。
今、義勇がしなければならないことは、あの少年を山頂まで引き上げることにほかならない。それだけに集中して、義勇は悲しみを心から追い出した。
少年の重みを受けたロープは、義勇の手のひらを容赦なく削っていく。こすれた皮膚はそろそろ血がにじみだしているかもしれなかった。だがそれをたしかめている余裕はない。
ただひたすらに義勇はロープを引き、少年も懸命に斜面を登る。どれぐらい時間が経っただろう。シャカリキになって足を踏ん張りロープをたぐっていた義勇は、不意に消えた重みの反動で、盛大に尻もちをついた。
「うわっ!!」
ロープをにぎりしめていた少年は、登りきった瞬間に引っ張られ、バランスをくずしたらしい。ロープをつかんだままつんのめり、地べたに座り込んだ義勇へと飛び込んできた。
義勇に伸しかかるように転んだ少年の頭から、被っていたキャップが飛ばされた。
あらわになった赤みがかった髪は汗でしめりつつも、風にふわりと揺れている。そのときになって義勇は初めて、少年の耳にゆれる大振りのピアスに気づいた。
そして、義勇はようやく少年の顔を見た。
一陣の風が、強く吹き抜けた。風は桜の花びらをふたりのもとへ運んでくる。
淡く色づいた雪のような花びらは、たわむれるようにふたりの周りで舞った。