桜が謳うサンサーラ
義勇の群青の瞳と、少年の赫灼の瞳が出逢うのを、祝福でもするかのように。
「……ぁ」
「……っ」
言葉にはならなかった。
全身を駆け抜けた衝撃を、なんと名づけたらいいのだろう。
ぽろりと涙が落ちたのは、同時だった。
わななく唇は呼ぶ名を持たない。初めて見る少年だ。なのに義勇は、この子を知っていた。
少年もまた、義勇を一心に見つめ、ほろほろと涙を流している。 義勇の震える腕が、自然と少年の背にまわされた。湿ったシャツの背に触れたと同時に、ビリッと手のひらに走った痛みが、夢ではないことを義勇に知らせる。
地面に転がる義勇の頬に、少年の指が触れた。けれどその手はすぐにあわてたように引っ込められる。
凝視する義勇の視線の先で、少年は手にはめていた軍手を、心急くのを隠さぬ顔で外している。
そのくせ、貸した軍手をきちんとそろえて地面に置く少年の律義さは、じれったいようでもあり、無性にうれしくもあった。
一連の行動を無言のままじっと見つめている義勇の上で、ほっと息をついた少年は、改めてそっと義勇に触れてくる。
汗ばんだ手のひらが触れた瞬間に、義勇はきつく少年の背をかき抱いていた。少年の手が行き場をなくしさまようのに応えるように、腹筋に力を入れて身を起こす。
義勇の膝の上に座り込む形になった少年は、迷わず義勇の背に腕をまわしてきた。力いっぱい抱きしめてくる腕が、泣きたいほどにうれしい。
腕のなかの体は温かかった。汗の匂いがする。少年の息づかいが耳元で聞こえた。重なった胸から、鼓動が伝わる。
――生きてる。
生きている。
生きているっ!!
あぁ、今度こそ、生きて出逢えた!!
義勇は疑わない。この少年こそが探し求めた片割れであることを。
それは少年も同じであったろう。少年が義勇を探していたかは知らない。けれど出逢った瞬間にわかったはずだ。
今抱きしめあっているお互いは、誰よりも特別な存在なのだと、魂の片割れなのだと、きっとこの子も気がついた。
言葉なく泣きじゃくりながら、ふたりは腕のなかの温もりをたしかめるように、ぎゅうぎゅうと抱きしめあった。
どれだけ抱きしめても足りない。もっと近づきたいという渇望にあらがうことなく、義勇は、少年の首に埋めていた顔をそろりと上げた。
そのまま背を抱いていた右腕を、そっと少年の後頭部へとまわす。おずおずとなでた髪は、汗でしめっていた。
うながされていることを悟ったのだろう。少年の顔も上げられて、義勇の瞳をまっすぐに見つめ……そして、静かにまぶたがふせられていった。
義勇は少年の額に自分の額を寄せると、慈しむようにすりあわせ、そっと少年の唇に唇で触れた。
柔らかい。浮かんだのはそんな当たり前な一言だ。少年の唇は、涙でぬれていた。きっと少年も、義勇の唇をぬらす涙の味を感じていることだろう。
キスのしかたなんて、義勇は知らない。この少年もそんなものは知らないに違いない。
けれどふたりとも、このはちきれんばかりの渇望は、唇を触れあわせるだけでは満たされないことを知っていた。
少し離した唇が、互いに薄く開かれた。
唇のあわいからふたりの舌先が小さくのぞく。義勇はうかがいをたてるように、ちょんと少年の舌先に舌で触れた。
ぴくりと震えて、少年の舌が口のなかに逃げていく。その動きはまるで誘っているように思えて、義勇は深く唇をあわせた。迷うことなく自分の舌を少年の口にすべり込ませる。
くちゅりと音をたてて舌が絡みあう。あふれる唾液をどうしたらいいかわからずに、義勇はこくりと飲みこんだ。
他人の唾液なんて、気持ち悪いばかりのはずなのに、どうしてだか少年のそれは、ひどく甘く感じる。
キスの最中の、息継ぎのしかたなんてわからない。だからすぐに苦しくなって唇を離してしまう。
それが我慢ならなくて、義勇も少年も、唇が離れた瞬間に大きく息を吸うと、先を競って唇を重ねあわせた。
絡めて、吸って、舐めあげて、互いに互いの舌にじゃれついていくキスは、官能を高めるためのものではなかったが、それでも体に熱をこもらせた。
少年の喉が動いて、義勇の唾液を飲みこむのを感じるたび、義勇の腰が重くなっていく。
自分のも少年にとって甘ければいい。もっと欲しいと思ってくれたらいいのに。
義勇はそう願った。願って、与えたくて、どうしようもなく興奮していた。
けれど、この先を義勇は知らない。少年も知らないだろう。
もっとと心は命じている。こんなものでは足りないと、心の奥底で命じる声がある。
足りない。足りない。もっと欲しい。もっと与えたい。もっと近くに。もっと。もっと。ずっと。
そんな声はきっとふたり同様に聞こえていただろう。
けれども離れてしまったのは、どうにも息苦しさが勝ったからだ。
はぁはぁと息を乱しつつ、泣きながら見交わした瞳は、ふたりとも歓喜とこもる熱をたたえている。
もう一度と肉体は切望するが、義勇はそれを懸命に抑えつけた。
出逢って終りではないのだ。知りたいことはいくらでもある。
「名前……」
「……え?」
「名前、教えて」
額を寄せあってささやけば、少年の目がぱちりとまばたいた。
「……炭治郎。竈門炭治郎だよ」
「炭治郎……」
うれしげにささやかれた名前をつぶやき返せば、その名は義勇の心にストンと落ちてきた。
あぁ、間違いない。この子が、炭治郎こそが、探し求めてきた誰かだと、疑うことなく信じられた。
「君は? 君の名前はなんていうの?」
「義勇。冨岡義勇」
「義勇、さん?」
少しとまどいをにじませた声に、義勇は思わずくふっと笑い声をもらした。
「なんで、さんづけ?」
「え? あれ? なんでだろ。なんとなく?」
クスクスと笑う炭治郎の鼻に、自分の鼻先をすりあわせて義勇も笑う。抱きしめあう腕は放したくなくて、離れたくなくて、そのままふたりは小さな声でささやきあった。
「なぁ、義勇……は、ここら辺に住んでるのか?」
「いや、結構離れてる。炭治郎は?」
「俺も、この春から少し遠くに行くんだ。父さんが脱サラしてパン屋を始めるから」
今は電車で一駅のこの山にも、引っ越したらそうそう来られなくなる。その前にもう一度歩きたくて、ひとりで散策していたのだと炭治郎は言う。
「初めてこの山に登ったとき、ずっとあの桜の木の下で誰かを待ってたって気がしたんだ。だから何度かきたんだけど、いつも逢えなかった。もしかしたら木の下じゃないのかもって思って、桜が見える場所を歩きまわってたら道を外れちゃって」
「それで遭難しかけたのか」
「遭難!! そんな大げさなもんじゃないよ!」
「……声が大きい」
「あ、ごめん」
あわてて黙り込んだ炭治郎に、義勇はいかにもおかしいと笑った。こんなふうに浮かれた気分で笑うのは、もしかしたら初めてかもしれない。少なくとも義勇の記憶には残ってはいない。
炭治郎も楽しいと笑ってくれるかと思ったのに、黙り込んだまま、みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。サクランボみたいに赤く染まったのは、顔だけではなく、耳や首筋まで真っ赤だ。
「どうした? 熱でも出たか?」