桜が謳うサンサーラ
なんとも風情のないことだが、自分らにはこれぐらいが似合いだろうと、義勇はわずかに口角をあげた。
かすかな微笑の気配を察してか、くふふと笑った炭治郎は、よかったと口にした。
小首をかしげることで問えば、炭治郎の笑みが深まる。
「義勇さんの機嫌がよさそうで、よかった。最後に見る顔が悲しそうだったり、怒ってたりしたら、俺、心配で帰れなくなっちゃいますから」
できれば笑顔だとなおいいですと、明るく言う。
義勇は得心しうなずいた。たしかに自分も、別れに見る炭治郎の顔は笑みがいい。悲しい泣き顔や怒りをたたえた顔では、心配で手放してやれなくなりそうだ。
稽古中や戦いのさなかの真剣な面持ちも、ぽろぽろと大粒の涙を落とす泣き顔も、義勇は知っている。それでもまっさきに思い浮かぶ炭治郎の顔は、いつだって明るく朗らかな温かい笑みだ。
「そうか」
答えたとたんに炭治郎の顔が、淡い月明りですらわかるほど、真っ赤に染まった。
「ズ、ズルいです! そんな顔するなんて……」
「どんな顔だ?」
さっぱりわからず、義勇は思わず眉を寄せた。
炭治郎は首筋まで赤く染まった顔をうつむけている。そうして、そんな優しく微笑んだ顔なんてめったに見せてくれなかったのにと、消え入りそうな声でつぶやいた。
そうだったろうか。自分がどんな顔をしていたのかなど義勇にはわからない。
「……困る」
「えっ⁉ すいません、あの、困らせるつもりはなかったんですけど」
「ち、違う。その、どんな顔をすればいいのか……おまえが望む顔を見せてやりたいが、自分がどんな顔をしていたのか、俺にはわからん。だからその、困る、と……」
笑顔が曇ったのが嫌で、思わずつめ寄ってしまったが、義勇の声は尻すぼみに小さくなった。我ながらなにを言っているのだかと、なんだか情けなくすらなった。
義勇の落ち込みになど気づく様子もなく、炭治郎はきょとんとして、すぐに小さく忍び笑った。
「本当にズルいなぁ、義勇さんは。そんなかわいいこと言われたら、俺、図々しくなっちゃうじゃないですか」
微笑む炭治郎の顔は、常日頃の快活さとは異なり、婀娜めいたと言っていいほどに密やかで、得も言われぬ艶を浮かべていた。
ズルいと言うなら、おまえこそだろう。
なぜ今そんな笑みを浮かべてみせるのかと、義勇はくらりと酩酊したような心持で、湯飲みの茶をあおった。
心の底の底から――それこそ、魂の奥底からと言っていいほどにおまえに惚れている男に、うかうかと見せる顔ではないぞと、舌打ちすらしそうになる。
幸せだけを祈っていることに変わりはないが、欲をおぼえぬわけではないのだ。
義勇とてれっきとした成人男性だ。ときに触れたいと思い、その身をすべて暴きたいと、凶悪なまでの欲求が身のうちを暴れまわることだってある。
最後だからと言い訳して、ただ一度の交合にふけってしまうのはたやすい。けれど、男と目合うなどという経験が、炭治郎の将来に落とす影を思えば、不埒な衝動などおさえ込むよりほかに、義勇に選択肢はなかった。
「……月、綺麗ですね。義勇さんは月みたいだって、禰豆子が言ってました」
「月? 俺がか?」
見慣れぬ大人びた笑みが消え、いつもの温かい笑顔になると、炭治郎はこくりとうなずいた。
「はい。絶望っていう暗闇を照らしてくれたお月様みたいだって。でも俺は、なんとなく違う気がしたんです」
「おまえは……日輪だな。お日様だ」
ならば、対となるのはやはり月だと、義勇は思った。
炭治郎にとって自分は、月にはなり得ないのだと。
「そうですか? そうかぁ……義勇さんをぽかぽか温めてあげられるなら、お日様なのはうれしいな」
弾んだ声で炭治郎は言う。ニコニコと笑う顔を見ていられずに、義勇はわずかに目を伏せると、空になった湯飲みを手持ちぶさたに握りしめた。
そんな義勇の様子に気づかないのか、炭治郎はどこか陶然とした声でつづけた。
「俺にとって義勇さんは、星です。ほら、あれ。北極様!」
「北極星……?」
「はい! 小さいころに父さんに教わりました。もしも道に迷って困ったら、北極様を探すようにって。
あの星は、いつでも同じ場所でおまえを導いてくれるって、父さんが言ってました。だから俺にとって義勇さんはあの星です。俺を導いてくれる、ただひとつの星です」
その瞬間に、胸に込み上げた深く大きな感情を、なんと名付ければいいのか、義勇にはわからなかった。
悔恨でもあり、わずかないらだちでもある。けれども途方もなく優しい思いでもあったし、どうしようもなく悲しいと思いもした。
なにものにも代えがたい喜びや、どん欲なまでの渇望も、すべてがないまぜになって、義勇の胸に渦巻く。
無粋を承知で名付けるならば、それこそが、ちまたで言われる恋だの愛だのと呼ぶものだったのだろう。
こぼれ落ちそうな涙をこらえ、義勇はようよう笑ってみせた。
「北極星は、妙見(みょうけん)とも北辰(ほくしん)とも呼ばれている。どちらも菩薩だ」
「へぇ、菩薩様かぁ。たしかに義勇さんは菩薩様みたいに優しくて綺麗だけど、菩薩様だとなんとなく女の人みたいですよねぇ」
うーんとうなり首をひねった炭治郎に、かすかに苦笑した義勇は、妙見は軍神でもあると言いながら、また天を見上げた。
「軍神! 義勇さんはとても強いから、そっちのほうがピッタリですね! 妙見菩薩ってどういう菩薩様なんですか?」
教えてくださいと、きらきらと瞳を輝かせる炭治郎は、義勇には答えられないことなどないとでも思っているのかもしれない。とんだ買いかぶりである。
少々とまどいつつ、義勇は請われるままに北極星を指差し言った。
「北極星──北辰は古代中国では天帝と同一視されていた。そこに仏教思想が加わって、妙見菩薩と言われるようになったという。毘沙門天などと同じく天部の軍神だ。
妙見とは、優れた視力を示す言葉だ。善悪や真理を見通す者という意味になる。俺には似合わんだろう」
北の大星、北の明神。子(ね)の星、北辰、目当て星。
北極星の呼び名は数あれど、変わることなく真北にありつづけ、人を導く星であることに違いはない。妙見の異名にはふさわしかろうが、自分がそれに見合うとは義勇には思えなかった。
「似合いますよ。やっぱり義勇さんは、俺にとってはあの星だって改めて思いました。
……これから先も、北極様はあそこにあって、俺を導いてくれる。迷ったら、いつでも道を教えてくれる。
俺、夜空を見上げたら、いつだってあの星を探します。義勇さんを思い出します」
微笑む顔がずいぶんと大人びて見えて、義勇は少しまぶしげに目を細めた。
「義勇さんも、思い出してくださいね。たまにでいいですから、俺のこと……思い出してください」
「あぁ……」
諾(だく)と答えつつ、義勇の胸中にあったのは、馬鹿だなという一言だ。
思い出すには、忘れていなければならないだろうに。
炭治郎を忘れて過ごすことなどありはしないのに、思い出せとは酷なことを言う。
けれどもそんな言葉はけっして口にはできない。黙りこんだ義勇の隣で、炭治郎も口をつぐむ。
しばらく無言でふたり、夜空を見上げていた。