桜が謳うサンサーラ
月は細く、青白く輝き、星は優しくまたたいている。ひときわきらめく北極星が、凛とした光を放っていた。
優しく穏やかな夜だった。
思い出すたび幸せだったと、心満たすであろう夜だった。
「触れられる思い出をもらってもいいですか? 義勇さんの髪を少しだけ……俺にくれませんか?」
不意に炭治郎が口にした、ためらいがちな一言に、義勇は一瞬とまどい、けれども静かにうなずいた。
「わがまま言ってごめんなさい」
「かまわない。俺にもおまえの髪をくれるか?」
こんな些細なことですら、わがままととらえる炭治郎が、義勇には無性に悲しく、抑えがたいほど愛おしく思えた。
たかが髪の一房で、幸せそうに笑ってくれるなら、いくらだって差しだそう。おまえが望むなら、この手も足も、供物のようにささげたってかまわない。けれど炭治郎はそんなものを喜びはしないから、義勇は黙って立ちあがった。
床の間にあった日輪刀を手にとり、鞘から抜き放つ。折れたままの日輪刀は、屋敷を引き払う日に鱗滝へと送るつもりであった。
おそらくは、寿命が先につきるのは自分だろう。あまたの鬼を斬ってきた刀の最後の仕事が、まさか髪切りだとは思わなかったが、それを知ったら鱗滝はきっと喜んでくれる気がした。
互いに切った髪を懐紙に包み、炭治郎は、いかにも大事そうにふところへとしまった。
「大事にします……ずっと、大切にします」
「あぁ……俺も、大切にする」
ほのかに微笑みあい、見つめあったのはほんの数瞬。あとはもう、兄弟弟子の顔をして、他愛ない言葉を交わすばかり。強く抱きしめあうことも、優しく手をつなぐこともない。
ましてや、恋しいとか愛しいなんて睦言など、一語もなく、けれどたしかに逢瀬と呼べるただ一度の夜は、ゆるりと更けていった。
別れから三年。
野に戻らず義勇との暮らしを望んだ寛三郎との暮らしは、一年で終わりを迎えた。以来、義勇の守り袋には鴉の小さな体羽も入れられている。
炭治郎はきっと怒りはしないだろう。寛三郎もおそらくは、炭治郎の思い出とともにあることを安心してくれるだろうと思った。
同居相手が亡くなって以降、義勇は、無言で過ごすことも少なくはない日々を、二年つづけた。
それなりに知己も増えたが、義勇の口下手や不愛想は、以前とさして変わりがない。ゆっくりと、けれど確実に衰えていく体力も、しだいに義勇が家にこもる理由になった。
義勇が炭治郎を見送ってからの三年間。それは義勇にとって、炭治郎の笑顔を思い浮かべぬ日など一日たりとない月日であった。
炭治郎が望んだように時折思い出すなど、到底不可能な毎日である。いつでも忘れようなく炭治郎が胸に棲(す)まっている、そんな日々だった。
穏やかに過ぎていく月日のなかで、満二十四歳を迎えた義勇は、いよいよ差し迫った命の刻限を感じていた。
しんと降る雪の夜は、弱っていく身にはことさらこたえた。ホッと一息つく春を越え、夏ともなれば暑気がまたこたえる。
けれどもまだ、終わりにはいくらか間があることも、義勇は感じとっていた。
十中八九、いや、確実に自分は独り身のまま生を終えるだろう。それを義勇は確信している。
炭治郎の望みは義勇が妻を娶り、義勇の血をつなぐ子をなすことだと理解しているが、どうにもかなえてやれそうにない。なにせ義勇の心にはたったひとりがどっしりと腰をすえているのだ。そんな男に惚れるおなごがどこにいる。
まして、幼いうちに父を亡くすことを余儀なくされる子どもなど、論外である。
それでなくとも、鬼狩りしかしてこなかった義勇に、できる仕事などそうそうなく、己の死後に妻子が先の憂慮なく暮らせるだけの蓄えも、持ちあわせてはいない。
天涯孤独の身の上でもあるし、働き先もなければ隻腕ともなった甲斐性なしのもとへ、嫁にこようなどというもの好きがいるとは思えなかった。
だから義勇はひとり得心し、炭治郎には諦めてもらうしかないなと、開き直っている。
とはいえ、義勇はまだ若い。れっきとした成人男性であるからには、人肌が恋しい夜もままある。だが義勇は、他者にそれを求めることなく、ひとり夜を過ごした。
情を交わす気もないのに共寝の相手を探す気になどなれず、そんな夜には思い浮かぶ炭治郎の顔を無理やり頭から追いやり、無心に自ら刺激を与えて果てるのが常だ。
炭治郎が妻を得て、平凡で安穏とした暮らしを送ることを望んでおきながら、下世話な欲の対象にするなど、義勇にしてみれば炭治郎に対する手ひどい裏切りでしかない。
筆まめだった炭治郎からの便りは、一度もなかった。当然だ。義勇は自分の住居を教えていない。炭治郎だけでなく、義勇は鱗滝にすら終の棲家を教えてはいなかった。
寛三郎が生きていたころは、手紙を届けるぞとときどき思い出したように騒いだが、結局、義勇が文をしたためることは一度もなかった。
――義勇や、あの坊主に手紙を届けるぞ――
寛三郎が今わの際に発したその一言に、年老いた相棒はずっと自分を心配していたのだと悟り、忸怩とする。だがもはや遅い。
長くともに生きてくれた老鴉への、感謝と後悔は数えきれないほど胸にある。それでも義勇は、炭治郎の幸せな暮らしを想像するだけでいいのだ。
悲鳴嶼の言によれば、痣が発現した者のなかには、二十五を越えても生きていた者がいるらしい。確約できぬ希望ではあるが、もしも命の刻限を超えるとしたら、それはきっと炭治郎に違いないと、義勇のみならず誰もが考えていたようだ。
よしんばみなと同じように二十五に満たぬ命であれど、炭治郎はまだ若い。この夏に十九になったばかりだ。六年の猶予は長い。
炭治郎が気立てのよい娘と出逢い、穏やかな愛情を育み結ばれることを義勇は願う。そして、炭治郎の血を引く元気な子をなす様を、たびたび想像した。
想像のなかの娘の顔は、いつでも不思議と禰豆子に似てしまって、そのたび思わず苦笑する。炭治郎の傍らで微笑む娘として、もっとも似合いだと思うのは、義勇にとってはどうしても禰豆子だ。
人に戻った禰豆子はきっと引く手あまたであろうし、もしかしたらもう嫁にいっているかもしれない。だがあの娘は、けっして炭治郎をないがしろになどしないだろう。義勇の望む最上の形でなくとも、炭治郎は義勇といるよりもずっと幸せに暮らしているはずである。
義勇はそれを疑ったことはなかった。
そのまま一人静かに人生の終焉を迎える予定だった義勇が、雲取山へと息せき切って駆けることになったのは、盆の送り火が焚かれる夜のことであった。
野方の生家や狭霧山ではないのだから、迎え火を焚いたところで、姉や錆兎がおとずれてくれるものかわからない。それに錆兎は、義勇に逢うなり懇々と説教しそうである。
説教もなつかしい語らいも、自分が三途の川をわたってからでもよかろうと、とくになにをするでもない盆を、毎年義勇は過ごしていた。
その日も、義勇はなじみの農家からの帰り道を、分けてもらった夕餉の菜を片手に歩いていた。
送り火の煙が、そこここから細く立ち昇り、宵闇へと消えていく。それをぼんやりと見つつ、義勇はまだ青い稲穂がゆれる田んぼの合間の道を、のんびりと歩く。