桜が謳うサンサーラ
思い浮かぶのはやはり炭治郎のことだ。
炭治郎と禰豆子も、雲取山のあの家で、送り火を焚いているだろうか。家族の思い出を優しい顔で語らいながら、義勇と同じように昇る煙をながめているだろうか。
もしかしたら、もう炭治郎の隣にいるのは、禰豆子ではないかもしれない。愛らしい嫁が炭治郎の傍らで、ニコニコと微笑みかけている可能性もあった。
細く高く立ち昇る煙をながめ、虫の音を聞きながら笑いあう若夫婦。それはなんとも和(なご)やかで、幸せな光景だ。
仲睦まじい若夫婦の邪魔をするつもりはない。それでもいつか自分の命がつきたとき、自分の魂は炭治郎の焚く迎え火にひかれ、ふらふらと炭治郎のもとへとたずねていってしまいそうだ。
そんな埒もないことを考えて苦笑した義勇の左手から、突然、菜を入れた器が音をたてて落ちた。
「炭治郎……?」
己の唇がつづったその名前に、義勇の背筋が震える。
義勇さん……かすかに聞こえたのは、なつかしい声。
優しく、柔らかく、ありったけの愛がこもる呼び声。
まさか、まさかと、わきあがる不安を必死に打ち消す。
けれども不吉な胸騒ぎはどうにも消えようがなく、気がつけば義勇は走りだしていた。
それきり、義勇の姿を見た者は、農村にはいない。
落ちて割れた器と、鳥やら獣に食い散らかされた菜の残骸だけが、残っているばかりであった。
それを見つけたのは、農家のお人好しな女房である。
菜を分けた翌朝に、義勇は毎回律儀に器を返しに来る。だというのに、その日にかぎって昼になっても義勇がやってこないことをいぶかしみ、家をたずねようとした女房は、割れた器にたいそう気をもみ、しきりに心配した。
家はもぬけの殻。わずかな家財も衣類もそのままで、義勇の姿だけがどこにもない。
「冨岡さん、いったいどこに行っちまったんだろうねぇ」
心配げに夫に話した女房は、菜と引き換えに義勇がよこす幾らかの金が、今後手に入らないことを残念がる夫に、おおいにまなじりをつり上げ怒ったものだ。
そのときばかりは気のいい老爺も、仲裁するどころか女房と一緒になって、旦那に口角泡を飛ばし説教する始末だった。
農家の女房はその後も、冨岡さんはきっとなにかに魅入られて連れ去られちまったに違いないよと、時折語り、それは晩年まで変わらなかったという。
人の好い農家の女房や気のいい老爺が、そんなふうに自分を案じつづけることなど、神ならざる身である義勇にはわかりようもない。
義勇は身ひとつで、脇目もふらず雲取山へと駆けていた。
いてもたってもいられぬ危惧の念に胸を占められ、憑かれたように義勇はただ駆けた。
雲取山へは、衰えだした義勇の足でも真夜中までには着くだろう。
なにごともあるわけがない。虫の知らせなど気のせいに決まっている。
何度も繰り返し自分に言い聞かせても、恐れは義勇の心から消えず、足を止めることはできなかった。
月夜の山道を義勇はひた走る。昔駆け抜けた道を、今再び駆け登る義勇の足は、以前のようには動かない。呼吸はまだかろうじて使えるが、柱としての全盛期にはおよぶべくもなかった。
だが、それでも義勇は、月が空のてっぺんにあるうちに、山間(やまあい)にある炭治郎の生家へとたどり着いた。
戸口からもれる細い灯りは、炭治郎なり禰豆子なりが起きている証左だろう。こんな夜更けにと思えば、不穏な想像が頭をよぎる。
声をかけるのももどかしく、義勇はダンッと戸をたたいた。なかで人が動く気配がする。
「炭治郎……っ」
焦燥にかすれた声でようよう呼べば、きしんだ音をたてて戸が開いた。いかにも恐る恐るのぞいたのは、義勇が知るよりもいくらか大人びた禰豆子だった。
「冨岡さん……」
驚きをあらわに目を見開く禰豆子に、義勇は知らずつめ寄った。
「禰豆子、炭治郎は……息災か」
問うた声は震えていた。おそらく顔も青ざめていたであろうし、手足の震えも義勇のおびえを如実に禰豆子に伝えたに違いない。
なにを突然と笑ってくれ。あれ、義勇さんじゃないですかと、ビックリした顔をしながらも、炭治郎もお久しぶりですと笑って義勇を迎え入れてくれるはずだ。
どうか……どうか、そうあってくれ。
義勇の切願はけれどもかなわず、禰豆子はくしゃりと顔をゆがめ、大粒の涙をぽろりと落とした。
「きっと、お兄ちゃんが呼んだんですね……どうぞ、逢ってやってください」
どうにか笑みを浮かべているものの、かすかに震える唇から出た声はいかにも苦しげだ。
すっと身を引きうながす禰豆子に、義勇の心臓がひときわ高くドクリと鳴った。
おびえわななく足を叱咤し、義勇は土間に足を踏み入れた。
電灯も瓦斯(ガス)ランプもない家で、ゆらゆらゆれる心許ない光源は、古びた行灯だけであった。
冷える山中の家だからだろうか、炭治郎は、夏だというのにかいまきをかけて眠っている。
よろめきつつ近づき、義勇はぎこちない仕草で布団の傍らに腰をおろした。
「炭治郎……?」
おずおずと声をかけても、炭治郎は目を覚まさない。ピクリとも動かぬまぶたに、在りし日の恐怖が義勇の胸によみがえる。
身を乗り出し、おぼつかない手を敷布団の端に乗せれば、ザクリと小さな音がした。
あぁ、綿布団は買えぬのかと、頭の片隅でちらりと思う。
藁をつめた粗末な布団は、まずしい農村部などではめずらしくもない。義勇も狭霧山にいたころには、冬場は鱗滝が藁をつめてくれた布団で錆兎とふたり、寒い寒いと寄り添い眠ったものだ。
蝶屋敷や藤の家での、快適な綿布団に慣れた身に、藁の布団は寝苦しくはなかったか? おまえは質素を苦にする質ではないから、そんなことは考えたこともないだろうか。
不安からのがれるように、場違いな疑問が思考を占める。
それでも、たしかめなければこの叫びだしたいほどの恐怖は、到底ぬぐえぬこともわかっている。
義勇はこわごわと、身をかがめた。
そっと炭治郎の顔に己の顔を近づけて、かすかな吐息を鼻先に感じた瞬間、瞳に浮かんだのは大粒の涙だ。
息がある。生きている。
安堵に胸がつまるが、それも禰豆子の声にすぐさまかき消えた。
「……春先から急に弱りはじめて……お盆に入る前に、一気に体調が悪くなりました。医者に診せたところで意味はないって笑って、今日も仕事をしてたんです。倒れたのは、送り火を焚こうと表に出ようとしたときでした。そのまま……目を覚まして、くれないの」
禰豆子の声は静かだけれど、あまりにも悲しいひびきをしていた。
「まだ……早い。俺より炭治郎はずっと若い。死ぬなら俺のほうが先だろうっ」
「私には……わかりません。なんでお兄ちゃんがこんなに早く逝こうとしているのかなんて……。
でも、でもね、冨岡さん。お兄ちゃんはきっと今、すごく喜んでると思うの。だって……だってお兄ちゃん、いっつも冨岡さんのこと、ばっかり、言ってたからっ。ぎ、義勇さんは、元気かなって、幸せかな、笑って、る、かなってっ。ずっと、冨岡さんの、こと、ばっかり……」