桜が謳うサンサーラ
尻すぼみに消えた言葉に振り向き見えれば、禰豆子はうつむきしゃくり上げている。ぐっと唇を噛みしめ、泣きわめくのを懸命にこらえているようだ。
炭治郎と禰豆子は、感情表現豊かだ。開けっぴろげに笑い、眉をつり上げ怒り、頬ふくらませてすねる。大粒の涙をぽろぽろとこぼし泣く。泣かれるたび内心うろたえつつ、まるで蓮の葉の上でコロコロと転がる朝露のようだと、その涙に見惚れたことは多々あった。
けれど今、禰豆子は必死に泣くのをこらえている。
その姿が、長男だからと我を抑えてしまう炭治郎と重なって見えて、義勇はきゅっと眉根を寄せた。
「……泣いていい。泣け、禰豆子。我慢をするな。炭治郎はおまえが我慢することなど望まん」
ひっくと、大きくしゃくり上げる声がして、とうとう禰豆子はわっと泣きだした。
うずくまり禰豆子は泣く。頑是(がんぜ)ない子どものように。嫌だ、やだよお兄ちゃん、こんなに早く逝かないで。私をひとりにしないで。駄々をこねる幼子のように、禰豆子は泣く。
「馬鹿だ、馬鹿だよお兄ちゃんは! どうしていつも我慢するのって、私、怒ったじゃない。なのにいっつも困った顔するばかりで、どうして自分のしたいこと、もっと素直に言ってくれないの! 逢いたかったくせに! 一緒にいたかったくせに!!」
大好きなくせにと、禰豆子は泣く。泣き怒り、そうしてまた、嫌だ、嫌だと、悲しく叫ぶ。
胸を刺し貫かれるような痛みをおぼえ、義勇は小さく息をのんだ。言葉は出なかった。なにを言えるというのか。わからなかった。わかっていると思っていたのに、わかっていなかった。
妻を娶り、家を、血を継ぐ子どもをもうける。それが当たり前の、そして最上の幸せだと、そうすれば炭治郎は誰よりも幸せになれるのだと、思っていた。
違うのか。間違っていたのだろうか。炭治郎の幸せには、そんなものは必要なかったのだろうかと、義勇はなかば呆然と、泣く禰豆子を見つめていた。
やがてぐしゃぐしゃに泣き濡れた顔をあげた禰豆子が、取り乱してごめんなさいと謝るのにも、義勇は答えることができなかった。
幸せになってほしかった。誰よりも幸せに。離れることが、誰からも祝福される相手と結ばれ、誰の目にも微笑ましく映る家庭を築くことが、炭治郎にとって最上の幸せだと思っていたのに。
そうすれば、誰も彼もが幸せになれるのだと、信じていたのに。
なのに今、炭治郎は残酷なほど急いで命を削り、禰豆子は身も世もなく泣き叫んでいる。
恋をしている。生涯ただひとつの恋を。けれど恋心だけでは幸せにはなれぬと思っていた。愛している。誰よりも愛しているから、幸せになってほしかった。
えらんだ決断は、炭治郎とて同じこと。幸せになってと感情豊かな大きな瞳が、雄弁に義勇に語りかけていたから、笑って別れた。
互いにたったひとつの恋を胸にかかえたまま、実らせることなく。
呆然としたまま黙りこんだ義勇は、手の下に小さなゆれを感じびくりと肩を震わせた。
慌てて視線を炭治郎に投じると、閉じたまぶたがピクピクとかすかに痙攣している。
「炭治郎っ!!」
「お兄ちゃん!! お兄ちゃん、冨岡さんだよっ! 冨岡さんがきてくれたんだよ!! お願い、目を開けて……っ」
ふたりが見守る先で、炭治郎の目がゆるゆると開かれていく。
薄暗い室内で、のしかからんばかりにのぞき込んでいる義勇の顔を、炭治郎は認識していただろうか。
もしかしたら、もう目は見えていなかったかもしれない。けれどそれでも、炭治郎はほのかに笑った。笑ったように見えた。
きっと、義勇の願望がそう見せたわけではない。その証拠に、細く頼りない吐息がもれる唇が、たしかに「義勇さん」とつづっていた。
「あぁ、ここにいる。炭治郎、俺はここにいるっ」
かいまきの下でもぞりと体を動かす気配がして、義勇は、炭治郎にかけられていたかいまきを乱暴に払いのけた。
力など入らないだろうに、炭治郎は右手を持ち上げようとしている。義勇は迷わずその手をとり、ギュッとにぎりしめた。
冷えた手が悲しい。痩せて薄くなった胸が、だぶついた夜着からのぞいている。
禰豆子は声を殺して泣いていた。ふたりの邪魔をせぬようにとうつむき、ふたりの姿を見まいとでもしているかのように。
炭治郎の鎖骨がくっきりと浮かんでいる。首筋も細くなった。日輪刀をふるっていたころの力強さなど、みじんも感じさせぬ頼りない体だ。
炭治郎の死が目前に迫っていることを、如実に知らせるその細さに、義勇の唇が悲しくおののく。じわりと浮かんだ涙が炭治郎の顔をぼやけさせた。
ふと、炭治郎の首にかけられた紐に気づきよく見れば、ふところに小さな袋があった。それは、義勇の守り袋と同じ生地で作られていた。
いつのまにと思う義勇の隣で、禰豆子が言う。
「お兄ちゃん、肌身離さずそのお守り袋を持ってたの。いつもそれをにぎりしめて、夜になると北極様を見上げてた。そうして、義勇さんはあの星なんだって、笑うの。義勇さんは俺の北極様。ずっとあそこにいてくれる。俺を見守って、導いてくれる、たったひとつのお星様。一番綺麗で強い星って。
北極様を見ているだけで、義勇さんと一緒にいるみたいで幸せだって、お兄ちゃん、笑ってた。お兄ちゃんは、一日だって冨岡さんのこと忘れたことなかった」
押し殺した禰豆子の声に背を押され、義勇は炭治郎の額に、自分の額をあわせた。
同じだ。炭治郎、俺も同じだった。
鬼はもういないのに、毎日夜明けを待ちわびた。まばゆい太陽を見上げれば、いつでもおまえと一緒にいるようで、幸せな心地になれたから。
夜には北極星を探して、おまえの幸せを願ったのだ。どうか炭治郎を幸福へと導いてくれと。
うっすらと開かれた炭治郎の瞳の赫灼に、以前のような快活なきらめきはない。表情もうつろだ。だが、たしかに炭治郎は微笑んでいた。たとえようもなく幸せそうに。
そして義勇は、決断はあやまちだったと理解した。
間違えたのだ。自分と炭治郎の選択は間違いだった。
互いの幸せを望むなら、けして離れてはいけなかった。
世間に後ろ指を指されても、そばにいるべきだった。
誰かが定めた幸せなど、互いの幸せには関係ない。
愛おしいと、恋しいと、微笑みあうだけでよかったのだ。
あふれる想いを伝えあい、寄り添い生きるだけでよかったのに。
光を失っていく炭治郎の瞳は、それでも、泣かないでと義勇に伝えてくる。
幸せだと。逢えただけでうれしい、恋しい――誰よりも、なによりも、愛おしいと。うつろな瞳が雄弁に語る。
最後に見るなら笑顔がいい。そう言ったあの日のように、炭治郎の瞳は義勇に語りかけてくる。
泣くな。義勇は自分に命じつづけた。
涙が邪魔をして、炭治郎の顔が見えなくなる。己の瞳から伝わる、全身からほとばしりそうな炭治郎への想いすら、伝わることをはばんでしまう。
震える声で義勇は炭治郎の名を呼んだ。
愛おしさをこめて、何度も、何度も。
大丈夫だ、きっとよくなる。そうしたら一緒に暮らそう。
禰豆子と三人で暮らして、ふたりで禰豆子を嫁に出してやるんだ。禰豆子の花嫁姿が見たいだろう? きっと綺麗だ。