思い出よりも、ずっと、ずっと
そろそろ帰るかとブラブラ歩いていたら、レンガ造りの煙突が見えた。馬鹿でかい建物ばかり見てきたけど、ひょろっとした煙突は、十分高くそびえて見える。モクモクと吐き出されている煙は、汽車の煙に似てた。
「なんだあれ! なんか燃やしてんのか!?」
「金春湯の煙突だな。銭湯だ」
「戦闘!? 戦うのか!」
「バカ! 銭湯だよ、風呂屋!」
風呂なら山の家にもある。しのぶの屋敷や藤の家でも入った。家でも入れるもんに金を払うなんて、街の奴らは馬鹿なことをするものだ。
「もう営業してるみたいだな」
店の前にかけられた『わ』と書かれた木札を見て、半半羽織が言った。
「なんでわかんだよ。『わ』しか書いてねぇじゃねぇか」
「伊之助、ちゃんと読めるんだな! いっぱい勉強したんだろ? えらいなぁ」
頭を撫でてくる岩五郎に、これぐらい楽勝だぜと胸を張れば、うんうんと岩五郎はうれしそうに笑う。ガキみたいに頭を撫でられるのは癪に障らないでもないが、それでもほわりと胸が温かくなった気がした。
「言葉遊びのようなものだが『わ』なら湯が沸いた、『ぬ』なら湯を抜いたと示しているそうだ」
義勇さんは物知りだと笑う岩五郎に、俺も人から聞いただけだと、半半羽織は少し照れくさそうに視線をそらせた。一文字だけでいろんな意味があるものだ。帰ったら三蔵爺さんに聞いてみよう、もっと知って次の手紙に書けば、きっと岩五郎はまたうれしそうに笑うに違いない。
「記念に入っていくか」
煙突を見上げて半半羽織が言った。
「銭湯にですか?」
「うん。どうせ夜には行くんだ。ここで入っても同じだろう。それに、みんなで風呂に入るなんてもうないかもしれない。これも記念と思ってつきあってくれ」
半半羽織に頼まれれば、嫌だと意地を張るのも難しい。半半羽織には恩がある。伊之助たちを庇ったから、半半羽織の右腕は千切られたのだ。
素直にわかったと言うのは、それでもできず、伊之助はしかたねぇなぁと胸を張った。
「記念だってんなら俺様も入ってやらぁ」
「うっわ、偉そう。おまえ、なに様のつもりだよ」
「伊之助様に決まってんだろうが!」
やいのやいのと言いあう伊之助たちに、苦笑じみた笑みを浮かべた半半羽織たちは、それでもなんだかうれしそうだ。
大きな神棚のある番台とやらで金を払ったら、子分その三とは別々になった。雌とは一緒に入れないらしい。
銭湯は泳げるぐらい湯槽が広く、藤の家やしのぶの屋敷と違って天井が高い。やたらを声が響いた。奥の壁には富士山が大きく描かれていた。絵が描いてある風呂なんて面白い。一番乗りで足を踏み入れた板張りの床は濡れていて、つるつると滑って伊之助は目を輝かせた。
「ワハハッ! おい、氷の上みたいに滑れるぞ!」
「こらっ、伊之助! ほかのお客さんの迷惑になるだろ、はしゃぐんじゃない!」
「伊之助さん、お兄ちゃんや義勇さんを困らせちゃダメよ!」
板壁の向こうから子分その三の声がした。その声もいつもより大きくひびく。客なんてまだひとりふたりしかいねぇんだから困りゃしねぇよと、言い返そうとしたら、善八が鼻の下を伸ばしきって呟いた。
「禰豆子ちゃんも今、裸なんだよなぁ……痛っ!」
ゴンッと音がひびくほどに岩五郎と半半羽織の拳が、善八の脳天に落とされた。あれは痛そうだ。
「変な想像をするなっ」
「しょうがないじゃんかっ。ていうか、なんで冨岡さんまで叩くんだよぉ」
「禰豆子はもう妹だ」
「へいへい、連れ合いの炭治郎の妹ですもんね」
そんなら禰豆子ちゃんの連れ合いになる俺も弟と思ってやさしくしてほしいと、ブツブツ言う善八に、岩五郎と半半羽織は顔を見あわせて苦笑していた。
半半羽織はひょろりと痩せて見えるくせに、服を脱いだらガッシリとしてた。日がな一日字ばかり書いてるようには見えない。鍛え上げられた鋼の刀みたいな体をしている。右腕は、肘よりも上までしかなかった。
心臓がギュッと握りつぶされてるみたいに痛くて、伊之助は知らず目をそらせた。岩五郎の左腕も、爺さんみたいにしわくちゃだ。動かすこともできない。だけど目の当たりにしても、これほど胸が痛くなったことはなかった。
使えなくても岩五郎の腕はそこにある。半半羽織の腕は、もうない。生えてくることだってあり得ない。もう元には戻らないのだ。伊之助たちを庇ったから。
「春とはいえ夜はまだ冷える。しっかり温まれ」
ポンポンと、半半羽織の左手が伊之助や善逸の頭を軽く叩く。伊之助には、父も兄もいない。そんなものは知らない。
けれど、父や兄というのはこういう感じなんだろうかと、胸の奥がそわりとこそばゆくなった。痛みよりも強く、ホワホワと胸が温かくなる。善八も同じなんだろう。うひっと変な声を出したきり、赤い顔をうつむき隠してクフクフと笑っている。
岩五郎は、俺たちはもう兄弟みたいなもんだからと言っていたけれど、半半羽織も同じだろうか。半半羽織が自分たちのことを弟だと思ってたらいいなと、なんとはなし思って、伊之助はハッと目を見開いた。ブンブンと首を振る。
恩義はあるけど、兄弟なんかじゃねぇよ。いや、べつにそれはいいけど……だとしても俺様が兄貴だ。半半羽織や岩五郎だって、今度は俺様が守ってやんねぇといけねぇんだから。
湯につかってワイワイ話してたら、だんだん人が増えてきた。勤め帰りの人らかなと善八が言った。
半半羽織のぶった切れた腕や、岩五郎のしわくちゃな腕を、ほかの奴らがジロジロ見る。ギョッと目をむく奴もいる。岩五郎と肩が触れたとたんに、流行病の患者に触れたみたいに、あわてて避ける奴までいた。
ムカつく。腹が立つ。こいつらはそんな扱い受けていい奴らじゃねぇんだぞ。半半羽織も、岩五郎も、強くて、強くて、とんでもなく強くて、おまえらがそうやって呑気にしてられるのも、こいつらが必死に鬼と戦ったからなんだからな。腕をなくすぐらいに、目が見えなくなるぐらいに、戦って、戦って、必死に戦って! そうやってテメェらを守ってやったんだ! 馬鹿にされる筋合いなんかねぇ!!
ザバリと湯を揺らせて立ち上がり、伊之助は大きく息を吸い込んだ。見るんじゃねぇ! 怒鳴ろうとした声は、けれども出なかった。岩五郎の右手が、そっと伊之助の腕をつかんだから。いいよって笑いながら。
半半羽織も笑ってる。笑うな。怒れよ。善八も泣きそうな顔してんだろ。なのにふたりはただ笑う。
喉の奥になにかデカい塊を押し込まれたようだ。息が詰まって苦しい。ググッとこらえて、伊之助は拳を握った。
「おいっ! もう出るぞ!」
大きな声で子分その三に言って、伊之助は風呂から出た。それしかできなかった。
「待てよっ」
あわてた様子で善八も一緒についてくる。あんな目で見られる場所にこれ以上いたくないのは、善八も同じなのかもしれない。
半半羽織と岩五郎も、すぐについてきた。ふたりは集まる視線のなかでも堂々としている。憂いも羞恥も感じさせることなく、笑いあって悠々と歩いてくる。手を繋ぎあって。
「はい、義勇さん」
「おまえも」
岩五郎と半半羽織は向き合って、お互いの髪を拭いてる。ひとつきりの腕で、笑いながら。
向き合って笑うふたりは幸せそうだ。
作品名:思い出よりも、ずっと、ずっと 作家名:オバ/OBA