Hello!My family 第1章
ピピピピピと軽やかな電子音が聞える。スマホのアラーム音だ。禰豆子が起きてしまう前に止めなければと、義勇は反射的に手を伸ばす。
遮光カーテンの隙間から差す朝日は眩しい。今日は晴れているのだろう。雨降りだと禰豆子を送るのにいつもよりも時間がかかる。晴れていれば少しは楽だなとぼんやりと思いながら、義勇は緩慢な動作で起き上がった。
傍らの禰豆子はまだよく眠っている。息をつめて見下ろした寝顔はあどけない。知らず義勇の口から小さな安堵のため息がこぼれた。
禰豆子のまろい頬に涙の痕はない。昨夜は悪い夢は見なかったのだろう。禰豆子がうなされればすぐに目覚めているつもりだが、寝ているあいだのことだ。もしかしたら義勇が気づかずにいた可能性だってある。
一時期、禰豆子は毎晩うなされ、真夜中に泣き叫びながら起きていた。そのたび義勇は飛び起きて、ガタガタと震える小さな体を抱きしめ、大丈夫だと何度もひたすらなだめたものだ。抱きしめる腕が義勇のものだと理解していたのか、いないのか。たいがいの場合、禰豆子は身を固くしたまま、疲れ果てて気を失うように眠るまで、義勇の腕のなかで泣いていた。
ごめんなさい。ごめんなさい。いい子にします。もうしません。泣かないからあのお部屋に入れないで。
震えながらそんな言葉ばかりを繰り返し、必死に泣くのをこらえようとする痛々しさに、義勇こそ泣きたくなったいくつもの夜。いっそ、わんわんと声をあげて泣いてくれればいいのに。思いながら、義勇も必死に禰豆子のやせ細った体を抱きしめていた。
禰豆子が子供らしい寝顔を見せるようになってくれるまで、半年ほどはかかっただろうか。禰豆子はもちろん、義勇にとってもつらい日々だった。
毎日ろくに眠れず、慣れない家事や激務に追われて疲弊していく義勇を心配してだろう。同期の同僚たちが口々に、このままの状態がつづくようなら禰豆子が落ち着くまでだけでも施設か病院にと言うのを、受け入れるしかないのかと憔悴しきっていたころだった。
朝まで目覚めることなく眠ったその日、アラームの音に気づいた義勇は、覚醒した瞬間に青ざめ飛び起きた。
禰豆子が泣いていたのに、一人のうのうと惰眠を貪るなんて。焦りと後悔に追い立てられのぞき込んだ禰豆子の顔に、涙の痕は見つけられず……。
眠る禰豆子の頬を濡らしたのは、こらえきれずに零れ落ちた義勇の涙だった。
そのときの安堵と喜びを、今でも義勇はありありと思い出せる。
けれども、悪夢がすべて消え去ったわけではない。まだ時折禰豆子はうなされる。傷つき疲弊した幼い心は、まだ完全に癒されたわけではないのだ。だから義勇は毎朝、禰豆子の安眠を確かめずにはいられない。
今日の禰豆子の寝顔は、微笑んでさえいるように見えた。いい夢を見ているのだろうか。それならいいのだがと、やわらかな髪をそっとなで、義勇は静かにベッドから出た。急いで朝食と弁当を作らなければならない。それでなくとも繁忙期の今は、なるべく早めに出社して残業時間を少しでも短縮したいところだ。もっと手際よく調理できるようになるといいが、いまだ義勇の炊事にかかる時間は、手早いとは言えない。時間はいくらあっても足りなかった。
音をたてぬようそっと部屋を出ると、ふわりといい匂いが鼻先をかすめた。
「みそ汁の匂い……?」
知らずつぶやき、そして義勇は思い出した。そうだ、昨夜から炭治郎がいるのだ。
急ぎ足で台所に向かえば、明るい朝の陽射しに満ちた台所に、小柄な背中が見えた。
ジュウジュウとフライパンの上で食材が焼ける音がする。香る味噌とバターの香り。ふんふんと楽しげな鼻歌は、なんだか調子っぱずれだった。
くらりと、かすかに目がくらむ。記憶の遠く片隅で、やさしい笑い声が聞こえた気がした。
お母さん今日のご飯なに? と問いかけるうれしげな声は、幼い自分か、それとも、姉のものか。返された母の声は、いったいどんな響きをしていただろう。もう、思い出せない。
「あ、おはようございます! もうすぐできますから、顔洗ってきてください」
入り口に立ちすくんでいた義勇に気づいたのか、振り向いた炭治郎が言う。朗らかで元気な笑顔は、窓から差し込む陽射しよりも輝いて見えて、なぜだか無性に目をそらしたくなった。
自分でも理由のつかない狼狽が、表情に出たわけでもないだろうに、炭治郎は敏感に義勇の当惑を感じとったらしい。明るい笑顔が、ふと気遣わしげにくもった。
「あの、大丈夫ですか? 顔色が悪いです……もしかして、風邪ひいちゃいましたか? 俺、寝てる間に布団取り上げちゃったりしてました?」
お玉を握りしめたまま、せわしない声で言いながら炭治郎が近づいてくる。心配そうな問いかけに、そういえば昨夜は禰豆子に請われて一緒のベッドで寝たんだったと思い出し、とうとう義勇は気まずく視線をそらせた。
「大丈夫だ……。支度してくる」
「あ、禰豆子は何時に起こせばいいですか?」
立ち去ろうとする義勇の背中に投げられた声は、まだ心配そうな響きをしているが、重ねて体調を問い質す気はないようだ。それに少し感謝して、俺が起こすからいいと返した声は、我ながらそっけなさすぎた気がして、義勇は内心で苛立ちと動揺を持て余す。
あれだけ強引に同居するよう仕向けたというのに、こんな態度はよろしくない。責任ある大人のとる態度ではないだろう。困惑に自然と歩む足が速まった。
これから同じ家で暮らすのだ。もっと和やかな雰囲気を心掛けなければとは思う。けれどわからないのだ。どんな顔をして、どんな言葉で、炭治郎に接すればいいのかが。
にこやかに笑って、おはようと返してやるだけのことだ。そう思いはすれど、そのときの自分の顔は、はたして『まとも』な大人の男のものとして炭治郎の目に映るのか、義勇にはわからない。
足早に廊下を歩きながら、義勇は、落ち着けと自分に言い聞かせた。
禰豆子には炭治郎のように明るく誠実な、誰の目にも『普通』である者が必要だ。炭治郎に依頼したいのは、禰豆子の世話であって、義勇が友人やましてや家族のように炭治郎と接する必要はない。職場と同じだと思えばいい。社会人として最低限の挨拶などなら、たぶんこんな自分でも特に問題はないはずだ。炭治郎にも同じように対すればいいだけの話だ。
顔を洗い終えるまでに、どうにか義勇はそう結論付けた。
禰豆子には本当の兄妹のように愛情をかけてやってほしいと思うが、自分と炭治郎のあいだには雇用主と家政夫という関係しかない。なにも同居に気負う必要はないのだ。ビジネスライクに進めていけばいいだけのことだ。炭治郎だってそのほうが気が楽かもしれないじゃないか。
思い至れば、もう、そうとしか思えなくなった。年だって十以上も離れている。炭治郎の趣味などは知らないが、せいぜい詰め将棋をするぐらいが関の山な自分とは、話など到底合わないだろう。
そうと決まれば、苛立ちも和らぐ。難しく考えることはない。無理になれあう必要はないのだ。
炭治郎はたいへん真面目な良い子ではあるけれど、同時に、どこにでもいる『普通』の高校生しかない。自分のようなおじさんと、好んで話などする気はないだろう。
作品名:Hello!My family 第1章 作家名:オバ/OBA